武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

戦前の名翻訳者/佐々木直次郎の仕事(03)

 その後の調べで、佐々木直次郎第一書房から、豪華版の『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を出すに至った経緯が少し分かってきた。第一出版の社主長谷川巳乃吉氏の文章が見つかり、事の成り行きを記す手がかりが掴めたのである。『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部1984/9)の「巳之吉遺文」の章に、「新人発掘の歓び」なる一文が掲載されているので、少し長いが全文を引用しよう。

新人発掘の歓び
 出版の事業を以て単なる一片の営利事業と見ず、文化を促進し世を導く一種の予言的性質を帯びた天職であると考へ、出版者の責務は飽くまでも自己の志向と理念とに適合して唯一の特色を持つことであると確信する私は、良書の刊行を仕事の第一義として一路精進を続けてゐるのであるが、随つて私が著作者を選択する態度は、所謂御機嫌とり、気まぐれの影のないのは勿論、著作者その人に有名無名の区別すら全然問題の外である。要は良き書を世に出すことにあり、しかも過去を掘り尽して将来に伸びようとする私の念慮が、新人を紹介するに当つて一段の光栄と喜悦とにわななくのである。昨年私は草野貞之氏に依るアナトオル・フランスの『エピキュウルの園』を刊行して、此の意味に於ける大なる歓喜を味ひ、且つ宿願アナトオル・フランス著作集刊行の第一階を踏むことを得たが、今回更に下に述べる如き二人の新人と、二つの刊行プランを得たことは、何といふ歓びの極でありませう!
ポオ著作集 第一巻近く刊行さる
 彼の後従としてボオドレエル、マラルメ等を育くみ、その自国で与へられなかった王座を、仏蘭西の象徴派詩人の中に与へられたエドガア・アラン・ポオ! 彼が近代文芸の基調をなす現実主義に抗してその建設に甚大な影響を投じた其の業跡! 私が年来の熱烈な願望は其の適訳者を得て彼の文苑を悉く我国に移さんとする志であつたのである。而も彼の輪郭はあまりにも大きく、彼の足跡はあまりにも偉大であつて、これを国土を異にし殊に国語上の根本的な差異を持つ我等のものとする事は、誠に不可能に近い至難事として、痛歎の裡(うち)に永く私を焦燥せしめて来たのである。
 或日私は一人の青年から、情熱あふるるばかりの訳稿を提示せられ、それを繙読するに及び、驚歎に近い感激に胸を焼くと共に、永年求めて得られなかつた至宝をゆくりなくも発見した嬉しさに雀躍せずにはゐられなかつたのである。その訳稿こそ、実にポオの著作中に於ける傑作の一つと目せられる「メエルストロムの旋渦」であり、その流麗な行文は悉く我等の国語から出て洗煉の妙に達し、円転自在な会話の運びと相俟つて一片翻訳臭味の漂ふあるなく、殊にポオの崇拝者としてその広汎な文献に徹したと云ふ若き訳者の溌剌たる情熱は、香り高い春の花のやうに行文の上を流れてゐるではないか。ポオ著作集刊行の多年の宿望は、突嗟に私の胸の中に具象化したのである。
 青年の名は佐々木直次郎。私は多望なる新人この訳者によつて、ポオ著作集を遠からず江湖に送り得るの期に際会したことを絶大な喜びとする。斯く情熱ある新人に依つて、好きな本を一冊づつ私の仕事の上に殖やして行くことは、何とも云ひやうのない歓びである。エドガア・ポオ著作集! その巻目は左記の通りである。いづれの巻が、いつの時に発刊されるかは予め不明であるが、毎年二冊宛刊行。先づ以て新秋九月の候第一巻、メエルストロムの旋渦他八篇を以て、此の光栄あるスタアトを切るつもりである。──『伴侶』4、昭和五年七月──


 書き手に対する目利きの確かさにより新人発掘の数々のエピソードのある人ではあるが、佐々木直次郎との出会いには、格別の感慨があったらしく、熱のこもった文章から当時の高揚した気分が読みとれる。
 この遭遇に誰かの紹介があったのかどうかは不明だが、ポオ全集の発行は元々は第一書房社主の腹案があって、直次郎の持ち込んだ翻訳原稿がその実現の切っ掛けだったとは吃驚。稀代の出版人と有能な翻訳者との、驚くべき出会いのドラマがあり、そこから、直次郎の翻訳家としてのデビューが豪華版5巻全集という、新人翻訳者の待遇としては信じがたいような出版物となった裏にはこのようなドラマが潜んでいたのであった。稀覯本の背後に潜むこういうエピソードは何とも愉しい。 
 宮永孝氏の本によれば、直次郎は家庭では仕事のことはほとんど何もしゃべらなかったらしいが、夫人によると、ある時沢山の辞典を購入したことがあったと言う。おそらくそれは、第一書房の社主長谷川巳乃吉氏に励まされ、本格的にポオの翻訳に取り組み始めた時期のことだったのだろう。
 さて、今回のポオ小説全集の解説紹介は、第3巻『偸まれた手紙』である。全世界の推理小説史もしくは探偵小説史の第一歩が、この巻にまとめられていて印象的。