武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(28)

 《脱旨味あるいは味の原理主義
 山形のある酒屋さんが「脱旨味」という主張をなさりながらお酒を売っていらっしゃるのを知って、共感するものを感じた。
 酒屋さんなのでお酒の話、お酒の味は原料であるお米が発酵し熟成する過程で産まれるものであり、この発酵熟成によらないで旨味の成分を付加したお酒の味は、本来の味に<雑味>が加わったに過ぎないというはっきりした考え方だった。
 その酒屋さんによると日本酒の旨さの本質とは、「熟成の過程から生まれる五味の調和にこそあり」、熟成の過程を抜きにしてカプロン酸エチルなどの旨味成分添加による「旨い酒」は、どこかおかしいのではないかという主張は分かる気がした。味の原理主義とでも言おうか。
 そこで、この発想を料理に敷衍するとどうなるか、調味液やドレッシングの味を最小限に押さえて、素材そのものが持つ持ち味を味わうことの大切さにつながるのではないかと思った。
 食べにくい素材もあるので、別のものと一緒にしてクセを相殺するという考え方もあり、簡単に調理法にスライドできる考え方ではないかもしれない。しかし、実際問題として、このごろ気候が暖かくなってきたせいか、野菜の色つやが良くなり、味が少しずつ充実してきた。今は季節感がなくなったとはいえ、トマトやなす、キュウリ、大根や蕪も見事に生育したものが店頭に並ぶようになってきた。美味しく育った野菜のそれ自体の味を味わう食べ方はについて少し言いたい。
 我が家では、野菜を何かと組み合わせた料理はあまり作らない。料理の素材として使うよりも、それ自体を小さな主役として迎えたいからである。たまにはロールキャベツを作ることもあるが、普段は80℃ほどでゆでた茹でキャベツとして食べている。
 野菜類のほとんどは単体で、もっとも適した温度と時間で加熱しただけで、簡単な自家製合わせ調味液やマヨネーズなどを付けて食べている。味はシンプルだが、種類を沢山用意すると、案外、複雑な食卓を演出できるようになり飽きない。
 単品料理で旨さを求めるのではなく、複数の野菜の味の変化から生まれる、味の幅の広がりに旨さを感じ取ろうという考え方である。素材が変わると、微妙だが明確な味の変化が生まれて、味覚の前後関係が音楽のメロディーのような揺れ動く味覚の旋律線を演出してくれるのである。
 絵で言えば、キャンバスのようにして白米のご飯があり、このご飯と組み合わせると、どんな野菜の味も引き立つ。一口味噌汁を口に含むと、濃厚な大豆スープが口の中に残る味を洗い流してくれて、次のご飯をかむと、新しい味のキャンバスの準備が整う。私たちは、何という巧みな食事法を編み出したのだろう。旨いカレーを、繰り返し皿一杯食べるのも悪くはないが、次々と種類の違う食材を、味わい分けながら味わう日本式食べ方は複雑に旨くてとても面白い。 

 
 前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。ワンプレートのどこから食べ始めても、味の(微妙な変化)メロディーが楽しめます(笑)。


6月某日の朝食(上) ・味噌汁(油揚げ、豆腐、干し椎茸)・ご飯・カブの葉のおひたし・トマト・もやしのおひたし・白菜キムチ・キャベツのおひたし・里芋の煮っ転がし・カブの甘酢漬け・浅漬けたくあん・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳


6月某日の朝食(下) ・醤油味スープ(油揚げ、大根、ナメコ)・ご飯・キャベツのおひたし・トマト・ブロッコリーの温野菜・カリフラワーの温野菜・水菜のおひたし・蒸しカボチャ・キュウリ塩もみ・レンコンの旨煮・カブの甘酢漬け・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳