武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(30)

 《私作る人、僕食べる人》
 相当に古い話を思い出した、1975年に放映されたハウス食品のCMに「私作る人、僕食べる人」というコピーがあった。インスタントラーメンのコマーシャルだったが、国際婦人年にかかわる女性達の会からのCM中止の申し入れを受けて、放送開始の2ヶ月後に中止となってしまった。性役割分業を助長するというのが反対の理由だったと言う。
 今回話題にしたいのは、フェミニズムの観点からではない。最近、男女を問わず、「作るのが苦手、私食べる人」を信条にしている人が何だか増えてきたような気がする。この国が、世界的に豊かな国になって相当の年月が経過したせいか。
 歴史上の階級社会では、洋の東西を問わず、上流の人々は料理人を雇い入れて、自らは賞味することに専念する時代がながく続いた。美食家とは、優秀な料理人を雇い入れることができるお金持ちのことだった。食通も<食は三代>と言って、何代も続いた由緒正しいお金持ちの特権だった。庶民の美食家や食通への憧れは、富に対する羨望の顕れだった。飢餓への恐怖だった。
 そういう、食に関して食べることしか能のない人であることを自負する人々がかかえるある種の困難について考えてみたい。食事を<作る人>は、作り方の規模によって違いはあるけれど、仕入れから、調理、配膳、廃棄までの全過程に何らかの形で関わるけれど、作らないで<食べるだけの人>は、食卓の前に座るその一点だけでしか、食に関わることが出来ない。だから、仕方がないことではあるが、好きか嫌いか、美味しいか不味いか、盛りつけが美しいかどうかなどという、料理の現象面にしか触れることが出来なくなるのではないか。
 <作る人>にとっては、何も言わずにだまって<食べてくれる人>が何よりも都合がいい、つまり食に淡泊な人を歓迎すると言うことになってしまう。旨いの不味いのと文句を言う人は、自ずと敬遠されてしまう、「せっかく作ってあげたのに」という事になりがちである。
 これを、食による健康管理から見ると、食べるだけの人の行動の余地はほとんどなくなり、出されたものを食べるか残すか、どちらかだけの選択肢しかなくなるのではないか。食べないで残すしかない、限りなく選択肢の少ない健康管理は、実行する側からみれば大変に困難な道と言える。せめて、好き嫌いをはっきり意思表示して、アレが食べたいコレが食べたいと我が儘を言うしかなくなる。これは、限りなく狭苦しい生き方と言えまいか。 
 しかし、考えるまでもなく、食べるものを通して、栄養管理することが、健康管理の最重要テーマである。動物の身体は、食べるものがなくなれば、生きてゆくことが出来ない。食べたものの質と量が、その動物の体格と運動能力を左右する。私は、食育の根本は、自分で食べる物は、まず自分で作ることから始まると思っている。もし、これをお読みの方で、食べるだけの方がいらっしゃったら、何でも良いから、まず作ることから始められるようお勧めしておきたい。作る側から見えてくることは、とても多い。一番良いのは、栽培から始めることなのだが・・・(苦笑)。
 
 前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。

6月某日の朝食(上) ・味噌汁(油揚げ、大根、干しエノキ)・ご飯・茹でキャベツのおひたし・パプリカの温野菜・ブロッコリーの温野菜・蕗の旨煮・もやしのおひたし・キュウリ塩もみ・浅漬けたくわん・白菜キムチ・モロッコインゲン温野菜・茹でソーセージ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳


6月某日の朝食(下) ・味噌汁(油揚げ、大根、干しエノキ)・ご飯・茹でキャベツ・トマト・ブロッコリーの温野菜・カボチャの温野菜・もやしのおひたし・パプリカの温野菜・キュウリ塩もみ・蕗の旨煮・蕗の葉の味噌和え・浅漬けたくわん・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳