武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 汚れた英雄 第1巻(野望編)大藪春彦著(徳間書店)

toumeioj32005-06-22

 気付け薬の役割を果たしてくれるパワフルな一冊 この国のハードボイルド小説の金字塔、大藪小説の最高傑作(写真は67年5月に出た最初のハードカバー、定価が380円だった時代、装丁辰巳四郎
 「大藪春彦はお好きですか?」めったな人にこんな質問はできない。余程の読書家でも、大藪の書くものに何らかのマイナスの思い込みを持つ人が多いからだ。経験では、大藪作品を好み読み物として受け入れられる人とは、たいがい長い付き合いになる。不思議な作家だ。非合法の限りを尽くす犯罪者を描きながら、多数の心優しき読者を引きつけてやまないハードボイルド作家。そんな大藪の唯一無二の最高傑作、「汚れた英雄」の中の最良の一巻、全四巻の一冊目の「野望編」を推薦する。
 実は、汚れた英雄を私は5回以上、処分しては買いなおしている。全四巻を読み終わるたびに、もう読むことはないだろうと考えて人にさしあげるか、売るかする。何年かしてある程度記憶が薄らいだ頃、なんとなく気分がすぐれずもやもやしている時、鬱状態から抜け出せない時、元気を気分に注入したい時、汚れた英雄1巻目を手に取る。読み始めると「浅間レース」第1章からぐいと引き込まれ嵌まり込んでしまう。全巻読むたびにほぼ確実に夥しい疲労感と何がしかの元気の素をもらってきたような気がする。
 第1巻の内容は、主人公18歳の昭和32年の秋、第2回浅間火山レースの場面からの約半年間、物語はそのわずか半年間を圧倒的な密度で、ひたすら野望を引き付け野望にしがみつき足掻きまわる主人公の行動をめまぐるしく繰り広げる。数箇所、主人公北野晶夫の濃厚で虚無的な回想シーンが出てくるが、逆戻りするのはそこだけ、後は素晴らしい勢いで物語はひたすらに前へ進んでゆく。
 繰り替えされる血の匂いのする暴力シーン、相手を無残に叩き伏せる喧嘩シーン、スリルに満ちた過酷なレースシーン、複数の女性に対する陵辱シーン、いかなる場面においてもひたすらに勝ち続けてゆく。圧倒的な推進力。例え負けても次に勝つために用意された飽くなき勝利の物語。読み返した時にこの1巻がたった半年間の物語だったと気づき、意外の感に打たれたことがある。それほどこの勝利し続ける物語の密度が濃い。
 勝ち続けるべく設定された主人公北野には、人間的な成長はない。主人公の人物造形は何回かの悲惨きわまる戦争と戦後体験の回想の中に畳み込まれ、物語に登場したその時点ですでに完成している。18歳の孤独な青年の成長物語なのに、これを教養小説とは呼べない。青年の野望を描くアンチ教養小説。大藪は非常にハードな物語展開をする作家だ。
 この物語でも、主人公を勝たせるために、空手、車、バイク、セックス、英語、食事など、執拗にストイックなトレーニングを主人公に科し、圧倒的な力を付けさせ、生まれ持った天性を軸に無敗の物語を展開する。大藪の主人公は常に周到に準備し勝つ定めに呪縛されているかのようだ。準備不足か才能の不足か何らかの理由で負けるのは常に相手。よく読むと幸運のご都合主義の連続(ラッキーなストーリー)なのだが、読者にはそんなことは気づかせないように密度の濃い具体的記述を積み重ねて物語を組み立て、艱難辛苦の努力+周到な準備=勝利・成功の物語を繰り広げる。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を地でゆくストーリー。
 読み進むうちに、そんなばかなと思いつつ先を読み、何がしかの元気をもらい、最後にどっと疲れて読み終わるともう読むまいと思って処分する。忘れた頃また読み返してみたくなるという、薬物依存症のような不思議な魅力が大藪春彦にはある。まだ読んだことのない人、元気がほしい人、だまされたと思って読んでみて。大抵、bookoffの100円コーナーで見つかるよ。