武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 使用説明書、取り扱い説明書、マニュアルを楽しく読書することの勧め 学校教育でも国語の時間に是非取り入れるべき生活者の基礎学力  (写真は朝の通勤で見かけた道端の花タチアオイ、近所の人の風流心だろうか)

toumeioj32005-06-23

 「取り扱い説明書を読むのが好きです。」と言うと、ほとんどの人から変人を見るような目で見られる。残念でならない。これが、私が知る身近な人だけの現象ならいいのだが、これまでの経験では、どこで聞いても、誰に聞いても、マニュアルに対する偏見でもあるのか、取り扱い説明書嫌いが圧倒的に多い。
 「マニュアル人間」という悪口は、臨機応変の対応ができない融通のきかない、杓子定規な堅物という意味で、決してほめ言葉ではない。まず、私はここにマニュアルに対する大いなる偏見があると思う。今時のマニュアルを読んでみれば分かることだが、起こりうる多様な例外事例に備えて、考えうる限りの応用を準備しているものが多くなった。杓子定規の堅物というなら、マニュアルをろくに読まずに経験則だけに頼る、マニュアル嫌いにこそ当てはまることではないか、と思う。
 最近とみに分厚くなった携帯電話の取り扱い説明書。あのずしりと来る重さ、たまらない快感だと思いませんか。あの重さの中に、世界のトップ水準をゆくこの国の通信技術と多様な機能を集約した商品情報が詰まってるということですよ。読めばその限りなく面白い機能がタチドコロに自分のものになる、こんなに実利的で愉快な読書、他にありますか。
 パソコンでもカメラでも車でもバイクでも炊飯器でも電話でもエアコンでも冷蔵庫でもステレオでもウォークマンでもポットでもホットプレートでもプリンターでも自転車でもスキャナーでも洗濯機でもウォシュレットでも湯沸かし器でも、便利で多機能な商品には必ず取り扱い説明書が添付されている。読まなければ使えない。少なくとも安全に快適には使えないと思ったほうがいい。しかし、聞いてみると、誰もが読みたくないと言う。
 私の考えでは、読む楽しみには2種類ある。読んでいる時、読むこと=楽しい、という読書がある。素敵な詩、お気に入りの小説、それ自体が快楽としての読書である。エッセイを含む文学的な読み物はこれにあてはまる。
 もう一つは、読むことそれ自体は楽しくなくても、読書から得らた結果の知識が、読者に利益と楽しみをもたらす読書。知識や商品の使用方法を知るための読書。取扱説明書を読む意味は、こちらに含まれると思う。
 社会的には、後者の読書の方が遥かに大事だと思う。文学作品の情景描写に紛れ込み、ボーっとなって自由気ままにあらぬイメージを掻き立てることより、過不足なく必要にして十分な理解を文章から汲み取ること、こちらの読みとり技術の方が、未来を生き抜く力としてもどんなに大事か、ちょっと考えれば誰にだって分かることだろう。
 私は、学校で一日も早くこの取扱説明書を読み取る技術を指導すべきだと考えている。何人かの人に耳打ちしたことがあるが、冷たい目で見られるのがおちだった。新しくて少しだけ複雑な技能を習得して使っていると、よく「どちらで学ばれたんですか」と聞かれる。本当に新しいことなら、教えてくれる学校などありはしない。商品ならそれ自体からと付属の取扱説明書に学ぶしかないのである。通勤かばんに入れて、繰り返し繰り返し分かるまで納得するまで読み返すしかない。
 余談だが、最近の取り扱い説明書は本当に分かりやすくなった。10年前には、説明書を書いた筆者を見つけ出して、文句を言ってやりたいほどわかりにくいものもあったが、今の説明書は本当に分かりやすく出来てますよ。ごてごてと着飾ってはいないが、すっきりとして透き通り、一読、意味だけをそっくりきちんと伝えてくるすばらしい文章が多くなった。名文ではないかもしれないが、説明書の文章とその書き方が進歩したことは素晴らしいとだと思う。名のない書き手の皆さんの目立たないご努力に惜しみない賛辞を送りたい。