武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「真珠の耳飾りの少女」トレイシー・シュヴァリエ著、木下哲夫訳(白水ブックス)

toumeioj32005-06-24

 以前にオランダを旅してマウリッツハイス美術館の一角に展示されている縦44・5センチ、横39センチの小さな世界的名画「青いターバンの少女」に近寄っていったときの心臓の高鳴りを思い出した。1枚の絵のまわりが分厚い沈黙に守られているような不思議な近寄りがたさを感じドキドキ。遠くからでもこちらにさりげ無いようでいて意味深長な微妙な視線が放射されているのが分かる、不思議な眼差し。この絵を主題にして1篇の恋愛小説をものした人がいることは、即座に納得できる。出来具合が気になったの早速読んでみた。映画にもなったそうだが、映画はまだ見ていない。
 早速本題の「真珠の耳飾の少女」について見てみよう。時代設定はずばり1664年から66年までの3年間、最後に76年の付け足し、主な舞台はフェルメールのお屋敷とその周辺、デルフトの街。フェルメールの絵が好きな人には、丹念に取材して書かれた17世紀のデルフトの町並みやフェルメール宅の室内の様子や家族構成など、謎多き画家の周辺を想像力たくましく描き出す作者につれられて、心躍る風俗描写を楽しめるように出来ている。フェルメール画集の通り一遍の解説を読むよりどんなに楽しいことか。
 さて、物語に入ろう。主人公は、16歳の色彩感覚に秀でた目の大きな女の子、その名はフリート。父親が目が見えなくなり働けなくなって収入の道が閉ざされたために、フェルメールのお屋敷に女中奉公に出ることになる。目が見えない父親と、感受性に富む大きな目をもつ父親思いの(ややファザコンぎみ)の少女。うまい設定ではないですか。物語の語り手は、このフリート、すべてがフリートの目と感覚を通して語られる。
 この時代は、今からでは考えられないほど徹底した階級社会。一女中の少女にとって、フェルメールは普通なら直接に口を利けないほど遥かに高い所に居る旦那様。生まれ持った視覚的感受性のため、たちまちフェルメールの絵に感激し、絵に夢中になるフリート。やがて、フェルメールのアトリエの掃除をするようになり、彼女の掃除の仕方が、フェルメールの眼にとまる。片付けた小道具の配置が迷っているフェルメールの構図のヒントとなり、回答となってゆく。フリートは、造形に関する天性の鋭い感受性を発揮し始める。
 そんなフリートとフェルメールの間には二人の女性が立ちはだかる。一人はフェルメール夫人のカタリーナ、彼女はフェルメールに最も近い人物でありながら、フェルメールの絵をその本質において理解できない女性として設定されている。絵に関してだけは、フェルメールに一番近づき、ほとんどフェルメール同等になれる感性を持っているのがフリート。もう一人は、女中頭のタンネケ、フェルメール家のすべてを知り、生活の采配を振るっているしっかり物の中年女。この二人の女性の介在が、フリートの秘めた想いに、時には鋭く時には厳しい皮肉な影を投げかける。
 フェルメールにすっかり気にいられたフリートは、ついにフェルメールの絵のモデルを務めるまでになる。理想の構図と光の按配に向けて試行錯誤を繰り返す二人。クライマックスにおける真珠のイアリングの官能的な扱いと、息を呑むような鋭い痛みの感覚。よくあるようなセックスのシーンや抱擁の場面があるわけではないが、恋の成就が痛みとして表現されるのは頷ける。フリートとフェルメールの1枚の完璧な絵に向かう冷静で突き詰めた情熱、それが燃え上がる官能の煌めきとなって読者の胸を打つ仕掛けになっている。カタリーナとフリートの間を転がるナイフ。このシーンもこの小説の名場面。作者が仕掛けた物語の罠が、とても見事に配置されている小説だ。
 読んでいて、私はおもわず、「何と淫らな!」という思いを禁じえなかった。この小説を読んだ後、もう一度「青いターバンの少女」を見ると、絵をみる私の視点が微妙にずれたような不思議な感覚を味わった。してやられたなと言う気もする。この小説を読んで、以前のようには、ターバンの少女の目やイヤリング、濡れたような唇を見られなくなった。つい、フリートの淡くて痛々しい恋を思い浮かべてしまう。
 フリートとフェルメールの恋愛は冒頭の64年、65年、66年で終わり、最後に10年後の76年が来て終わり。最後の章で、もう一つ、見事な幕切れが用意してある。フェルメールの名品から生まれた、それに値する極上の恋愛小説が出来上がったと感じた。息詰まるようの切ない愛の物語を読んでみたい人、フェルメールの絵が好きな人、読んでみて。