武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 食べ物の味と味わい方について端正な日本語で語ってくれる我が座右の書 「料理歳時記」辰巳浜子著(中央公論社)昭和48年刊

toumeioj32005-06-25

 本の帯に「いまや、まったく忘れられようとしている昔ながらの食べ物の知恵、お惣菜のコツを、四季をおってあますところなく記した、いわば“おふくろの味”総集編!」とある。昭和48年に初版が出ているので、今から30年ほど前の本。この本は、単なる料理の本ではない。料理を通してこの国の戦後を語り、この国の自然と四季の暮らしを語る卓抜なエッセイ集と言えばいいか。帯にあるように、日々の忙しさのなかで忘れていたこの国のかつてあった暮らしを思い出させてくれる。文章が心情の感じやすい部分にやさしく語りかけてくるので、ついつい気分よく読まされてしまう。
 あまりに素晴らしい本なので、著者の辰巳浜子さんが気に入り、著作を探して他のも読んでみたことがある。「手しおにかけた私の料理」(婦人の友社)、「みその本」(柴田書店)、入手できたのはこの2冊だが、読み物としても断然優れているのはやはりこの料理歳時記だった。
 内容に行こう。歳時記と銘打っている通り、春夏秋冬の4章に分かれて、その季節折々の食材を見出しにして極上の話がエッセイ風に進行する。もちろん作り方についても書かれていますが、レシピの枠を遥かに超えて、折々の庶民の生活の知恵、生活者が一日一日を心豊かに暮らしてゆくための心構えのようなことまでが随所で語られ、抵抗なくこちらに流れ込んでくる。この奥行きのある滋味のようなものはどこから来るのか、何度か考えてみてまとまらなかったので、もう一度考えてみよう。
 辰巳浜子さんのこの本を書く立脚点、視座のようなところは、母という立場にある。家庭生活に流れ込み、家庭生活から流れ出る情報や物資、エネルギーなどのすべてを管理しコントロールしている母という立場、そこで蓄えられたノウハウの厚みが、辰巳浜子さんの文章の厚さ深さになって流れている。文中によく、辰巳浜子さんの母親の言葉が引用され、文章に奥行きを作り出すところがある。自らの実体験の積み重ねから導き出されたものを基礎にしながら、一世代前の知恵を引用できる生活の強さ。代々伝わる世代間の連続性が、いとも簡単に断ち切られて久しいこの国の家庭事情だが、世代間の伝承に大切なものがあることをひっそりと暗示してくれているような気がする。母から娘へ、やがて娘が母となり、その母からまた娘へ、その娘が母となり、そのまた娘へ。この気の遠くなるような連続性が、きれい事だけではないことを百も承知しているが、ほとんど伝えるべきものをもたない父と息子の精神論のようなものと比べると、素晴らしいことだと感心する。今、料理研究家として活躍中の辰巳芳子さん編の「手しおにかけた私の料理」(婦人の友社)の素晴らしい内容も、この母と娘の共同制作の賜物だった。
 いずれにしろ、「料理歳時記」の語り口は抜群。もちろん書かれてあることをヒントにして実際に何品か作ってみたが、美味しく出来上がったことをお伝えしておきたい。ところで、レシピ集と読者である料理を作る人との間には、相性のようなものがあるとは思いませんか。美味しいと力説してあるのにちっとも美味しくならない本、さりげなく書いてあるのに美味しく出来ちゃう本、本が悪いのか、こちらの腕がまずいのか。料理本を写真や文体からではなく、レシピとして客観的に批評評価してくれるような企画はないものかしら。そんな企画があっても、この「料理歳時記」はきっと上位に入る本だと思う。