武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『山のパンセ』串田孫一著(岩波文庫)

toumeioj32005-07-16

7月8日に随筆家の串田孫一さんが老衰のため亡くなられたとの訃報あり。力まない透明感のある文体で山岳エッセイを執筆、よく拾い読みさせてもらった名文家
 いつ頃のことだったか忘れたが信州をのんびりツーリングしていた時、とある道路わきの登山口で休憩した。その側に郵便ポストのようなものが立っていて、扉を開けると中に1冊のノートが入っていた。表紙には登山者名簿と書いてあり、何本か罫線が引いてあり、登山者の氏名や計画を記入するようになっていた。ぱらぱらとめくってみたら、みんななんともいい加減に記入している。はやる気持ちが先を急がせ、雑な記入になったのかもしれない。万が一の事故の際には役に立ちそうにないなという気がした。ところが一人、克明に同行者の人数と予定を書いている人がいた。読みやすい丁寧な字に感心して名前を見ると「串田孫一」と記されていた。
 串田孫一さんとの接点は、その登山ノートの筆跡と、数冊の著作だけ。本についても熱心な読者ではなかった。ハードカバーも手に取ったことがあり、洒落たデザインの装丁に感心しても、文庫を買って満足してしまった。読み方は、どこかのページの拾い読み、ストーリがあるわけではないし、論旨の一貫した展開もなく、根拠となる資料を並べて主張を補強するわけでもない。淡々とした文章で、登山の折の心象風景のようなものをすっきりした情感で包んでそっと差し出したようなエッセイ。随筆の文章はかくあるべしと言った淀みのない文章。カバンにいれてあると時々引っ張り出して読むが、先へ先へと読み進めることはなかった。たまたま手にした本が、随筆的なものばかりだったせいかもしれない。
 私は一種の活字中毒患者かもしれないが、時には本を読み疲れることがある。そんな時、串田孫一さんの山岳エッセイが何故か読みたくなった。読んでいるとスーッと疲れが取れてゆく。そして、しばらく遠ざかってしまう。そのうちに疲れがたまり、また手にとってみる。そんなことの繰り返しなので、この「山のパンセ」も全部読んではいないと思う。探せば書庫のどこかから、数冊別の著作が見つかると思うが、手元にあったのはこの1冊。長い間活字中毒の疲れを癒してもらいありがたかった。謹んでご冥福をお祈りしたい。