武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『少年動物誌』

toumeioj32005-07-29

 昨日の続き(写真は散歩の折に近くの農道でみつけたエノコログサ、由来は犬ころ草が転じて出来た名前だそうだ、ネコジャラシとも呼ぶ。英語ではFoxtail grassと言う)
 さて、昨晩は、「少年動物誌」の著者が育った時代背景を説明しようとして、戦後の高度経済成長と自然破壊について書いているうちに、昼間の仕事の疲れが出て、眠くなり中断してしまった。今現在、夕飯も食べ終わり少し自由な時間が出来たので、続きに取り掛かろう。
 この本の奥付を見ると、河合雅雄さんが生まれたのは1924年、昭和が始まる2年前の大正13年、関東大震災の次の年、治安維持法公布の前の年。中国との15年戦争が少しずつ深みにはまりつつあり、時代は暗黒の軍国主義時代に向かって大きく傾きつつあった時代。河合雅雄さんは、昭和の時代とともに生まれ成長し活動された方だいうことが分かる。
 兵庫県篠山町で生まれ育った河合雅雄少年の周囲には、まだ戦争の暗い影は僅かしかない。むしろ、まだほとんど近代工業の破壊の影響を受けていない無垢の里山の自然に囲まれて、のびのびと成長できた時代が本の中で活写されている。河合少年が出合う自然は、民家に接するようにして溢れていた身近な自然、飼いならされた自然と呼べばいいか、里の自然。したがって、時折、周りの自然の奥を覗き込み、里の奥に広がるコントロールできない原始的な自然を感じ取り、恐怖に駆られるシーンが随所に出てくる。自然の奥行きを恐怖の感覚で捉えたところが、この本が傑作になった所以だと思う。自然破壊と簡単に言うが、高度成長で最も被害をこうむったのは、この懐かしい里の自然、見慣れたこの国の原風景が一番壊れたところだった。日本産のトキが餌場にしていた場所も、里の自然だったから滅亡に追い込まれてしまった。
 それにしても、動物学者の文章にしては、この「少年動物誌」の文章の素晴らしさはどうだろう。鋭く対象に肉薄し、鮮やかに視点を移動、時には対象すれすれにまで肉薄、匂い、音響、色彩、触覚までも総動員して、見事に対象を活写する文章構成、並みの表現力ではない。気になったので調べてみると、著者は若い一時期、文学を志したことがあるらしい。道理で、その頃に相当の修行をなさり、動物学者としての観察眼が加わり、50歳にしてついに、この驚くべき文章力を獲得されたことのようだ。とにかく、文章が凄い。この文章をなぞるだけでもこの本は、一読の価値がある。
 そして、内容が素晴らしい。かつて、ある友人にこの本を紹介され、恩返しに、何冊もその友人に本を紹介してきたが、この本を紹介してもらった恩は未だに返しきれないでいる思いが強い。この本と出合ったことは、私にとってそれほどの深い喜びとなった。さて、内容に触れるために、目次を引用しよう。

・モル氏 ・ 裏藪の生き物たち  ・森と墓場の虫 ・ 水底の岩穴にひそむもの  ・蛇わたり  ・イタチ−落葉の精  ・クマネズミ  ・おばけ鮒と赤い灯  ・タヒバリ  ・魔魅動物園の死

この10編は性格付けは難しいが、私にはいづれもが鮮やかに纏め上げられた傑作短編小説に見える。主人公は河合雅雄本人の少年時代の<ぼく>、全編が一人称の僕を視点にして語られるが、単なる自伝的出来事ではない。50歳の河合氏によって、再構成され、緻密に吟味され、少年時代をばねにして仮構され、構築しなおされ作品にまで高められた細部によって出来上がったもの。相当に複雑な表現手続きを経て、作品化されたもの、その込み入った手続きを感じさせない造作になっているところがミソ。
 この本は、子ども向けに企画されたようだが、子どもにも勿論読めるが、本当の良さが分かるのは大人になってからだと思う。<ぼく>を通して見られている自然は、河合少年を取り巻く40年前の自然だが、文章化しているのは、50歳の河合伯父さんの表出意識。
 それにしても、なんと生き生きと甦ってくる少年時代なんだろう。やさしい父と母、ともに生きる兄弟達、ほのぼのとしてこちらを気持ちの良い世界に遊ばせてくれる。鋭く、苦く、甘く、芳しい世界。残酷で、ひ弱で、欲張りで、気前がいい、何とも矛盾した少年時代。少年時代に取材した稀に見る傑作短編小説だと思う。ぜひ、手に取って読んでみてほしい。河合雅雄著作集の8巻目にも収録されている。
 なお、文章とともに平山英三さんの鉛筆画の挿絵も傑作。文章に影響を与えない配慮か、各短編の最後のページに見開きで篠山町に取材した緻密な鉛筆画が挿入されている。文章の余韻に浸りながら、モノクロの濃密な絵を眺めるという贅沢、こんな贅沢な時間を企画した当時の福音館のスタッフにも拍手を送りたい。