武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 これほどの渾身の力を注ぎ込んで成った長編詩は他にあるまい。何度読んでも、ただ圧倒されうな垂れて引き下がるほかない戦後詩の金字塔。

toumeioj32005-08-20

 今日の朝日新聞をめくっていて、宗左近さんのお元気な姿と、インタビューを通して今なお確固として戦後詩人の立場をゆるがせにしないそのきっぱりした姿勢に感じるものがあり、以前に買って、何度も読み返してきた1冊の詩集を思い出し書棚から探し出した。奥付を見ると1968年11月発行となっている。今から40年近く前、発売されて間もなく購入したように記憶している。
 入手して以来、何度も読み返し、手放せないで今に至っている。内容は、題が示しているように、息子の立場からひたすらに亡き母を繰り返し追慕するもの。著者によれば、1945年5月25日の空襲の最中、猛火の中で母を死なせて仕舞ったことへの、ひたすらなる鎮魂の祈り。叙事的で非常に分かりやすく情景が目に浮かぶようなフレーズと抽象の度合いが高く難解な部分とが交錯する深刻な内容。一途に亡き母を思う気持ち、その一念だけが強烈に浮かび上がってくる重々しい長編詩集。
 全体の構成は、第1章「その夜」、第2章「さかしまにのぞく望遠鏡の中の童話」、第3章「来歴」、第4章「明るい淡き無機質の」、第5章「祈り」、第6章「サヨウナラよサヨウナラ」、によってまとめられた連作詩編の集合体という組み立て。そして、全編、有機的に結び合わされたようになっていて、どれか1編を取り出してみてもあまり意味を成さないような感じを受ける見事な構成。
 著者の言葉によれば、このようにまとまるまでに22年を要したと言う。重量感ある読み応えがあり、さもありなんと肯ける。ただし、どの詩も全編今は亡き母に対する鎮魂の詩の性質上、意味するものはそれ自体前向きとはなりえない。ひたすらなる過去への揉み込むように苦しげな半ば懺悔の歌とも成っており、明るい光は殆んど差してはこない。暗く陰鬱で、しかも苦しげに引き裂かれている。
 この国がかつて経験せざるを得なかった、苦い歴史の記憶を詩的に表現したものと、取ることも出来ようか。この作品を必然とせざるを得なかったような過去を忘れまい。放棄したはずの亡霊が甦ると、再び民は悲しい想いに引き裂かれることになってしまだろう。