武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 先日、古書店をぶらぶらしていて100円コーナーで、窯変源氏物語の①から③までを見つけ、もともと気になっていた本なので3冊とも購入した。橋本治さんは、桃尻娘以来、旺盛な創作力ある稀に見る才人としていつも視界に入れてきた作家。ある時からこの国の古典の現代語訳に守備範囲を広げ、見事な活動を展開している様子、気になって仕方がなかったが手に取る機会を逸してきた。

toumeioj32005-10-01

 さっそく、窯変源氏物語を文庫で読み始めてみて感心した。橋本治さんの現代語訳は、これまでの沢山ある源氏物語の現代語訳と一線を画す画期的な仕事だということに気が付いた。「一人称で語る光源氏の物語」という宣伝文句だが、確かにその通り。だが、才人橋本治さんの仕事は、そんな簡単なものではなかった。
 その一、これまでの現代語訳は、基本的には対語訳、原文をどの程度砕くか意訳するかに程度の差はあったが、平安時代の構文を崩さないようにして、現代語に移し変える作業だった。従って、平安時代の思考スタイルがそのままコピーされてしまい、外国文学を対語訳した以上に分かりにくくなっていた。1000年の年月の隔たりは、外国以上に文化的には遠いと言う認識が生かされなかった。窯変源氏物語は、その点を見事にクリアしている。一編の現代小説として再構成したのが、橋本訳の画期的な新しさ。
 その二、すべてを光源氏の視点から再構成するという方法論なので、描く対象は光源氏の内面、それも一人称の記述なので、内面から見られた内面の描写が記述対象、従って、描き出される女性も男性も天皇すらも、光源氏の内面の鏡に映しだされた対象としての女性であり男性であり、天皇となる。しかも、並ぶもののない高貴な出自でありながら制度的および財政的なアイデンティティーを喪失した存在、時代の暗黒空間に一点の光点として輝く光の球のような一人称の近代的自我。この一人称の仮構が窯変源氏物語成功の鍵だったような気がする。
 その三、理解するという営みの本当の意味で、源氏物語を理解するには、おそらくこの方法がベストではないかと思った。対照的な方法は、古文を古文のまま原文で読む方法、読み手が古文の語彙と文法を学び、言わば平安時代人になりすまし、当時の思考を学ぶ方法、方法としては外国語を学び原書を読むのに似ている。平安時代を理解するには、平安時代の人間に近づくやり方、これに近い現代語訳がこれまでの現代語訳だった。谷崎のもの、与謝野晶子のものなど、私は途中で訳が分からなくなり、途中で飽きて止めてしまった。面白くなかった。研究者ではないので、つまらなくなったらもうだめだった。橋本治さんの窯変源氏物語は、現代小説として書かれているのですこぶる面白い。もともと不道徳な性愛の悪漢小説なのだが、その本来の姿をとりもどし、奇怪なホラー小説の雰囲気も加味して、心理小説の枠組みをもつ恋愛冒険小説として楽しく読める上に、光源氏の成長をたどるユニークな教養小説としても読めてしまう。光源氏を近代的自我をもつ一人称をとして再構築したのは画期的。源氏物語を現代に持ち込み、現代の風景の中に再構成したといったら良いか、これはもう一つの理解の仕方だと思う。才人の才人たる所以である。
 その四、愛の物語は、男の視点で綴ればどこかポルノ小説に似てくるはず。窯変源氏物語だけは、その期待を裏切らない。これまでの現代語訳は、奥ゆかしくもはがゆくて、全然感じない話だった。恋愛なのにトキメキがなく色気がなかった。橋本治訳は、濡れ場がなまめかしくも艶っぽい。覗き触り脱がせ抱きしめて妖しく燃え上がるエロチシズムの香気に満ちているのだ。これは、とても大事なことだと思う。古文の時間に教わるような無味乾燥な恋愛劇にしたて上げられたが故に、名ばかりの古典になっていたのではないか。橋本訳ではじめて最後まで読んだと言う人がいるが、頷ける。
 第1巻を読んだだけで、大げさなことを書いた。何冊か読んだら、続きを書いてみたい。