武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『プログラムとしての老い』日高敏隆著(発行講談社)

toumeioj32006-01-05

 「動物行動学の第一人者が解き明かす「老い」の正体」という帯のキャッチフレーズにひかれて、この本を手にした。軽くすいすい読めて面白かった。何度かナルホドと感心させられたり納得させられるところがあり読んでよかったと思った。内容は、老いの解明と言うよりも、人間の生涯と遺伝子的プログラムのかかわりの方が主体、老人問題の本でも老化対策の本でもないが、面白いので紹介したい。
 ①はじめの3章で、動物学からみた人間の<老い>の際立つ特徴が取り上げられる。極端なことを言えば、<老い>が動物にとってほとんど問題にすらならない。老いた動物は、ほとんど死んしまい、動物には<老い>を体験し老いた状態で生き延びることがないと言うことが出てくる。<老い>を自覚し意識したり<死>の接近におびえたりするのは人間特有のことなのだと指摘され、眼からウロコが剥がれ落ちる。さらに、動物を分類して野生動物と家畜に分けると、人間は自己を家畜化しただけでなく、自らとその周辺をペット化した動物に分類されるという指摘、一理あるとうなづかされた。動物学者の目から見た人の一生が、何だかペットのように可愛くて新鮮で楽しい。
 ②4章から8章辺りまでは、人の一生と遺伝子的プログラムのかかわりの分かりやすい解説、<老い>の問題とはあまり関係がないところ。それでも、奥行きのある柔軟な遺伝子理解を背景に、具体的で無理のない説明が展開されるので、とても分かりやすい。枠組みとして遺伝子的に決まっていることと、学習や選択などを通して人生が繰り広げる人間模様の多様性について、バランスよい記述で進んでいくのですっきりと理解できる。<性>がもつ進化と種の生き残りの意味など、奥行きがあってするりと納得させられる。
 ③9章からが、本書のテーマである人の<老い>の問題、だが、ここに来るまでに老いとはおよそこんなことだろうと察しが着いてしまい、ほぼその通りの内容が展開。遺伝子的プログラムの主要なプログラムがほとんど出尽くした後の避けようもなく迎えるプログラムの終わりということの、さりげない確認。モリスの「年齢の本」を下敷きにした人生の振り返り作業に、ユーモアがあって救われる。最後に、<老いの知恵>に関する記述が出てくるが、あまり説得的ではない。おそらく、これからの超高齢化社会にとって老人が社会的なお荷物になるのは、誤魔化しようがないからかもしれない。動物学の射程からは、人間社会の超高齢化問題ははみ出てしまう問題なのかもしれない。
 ④最後に、ドーキンスの提起した<ミーム>の概念が紹介されるが、なぜか、著者はこの部分を十分に展開しないまま、年貢の納め時としての<死>の受容に話を持っていって終わりにしてしまう。これも遺伝子的プログラム射程外のテーマなのかもしれないが、もう少し展開してほしかった。
 最後に、この本の概要を知るうえで役に立つので、目次を引用しておこう。

1 人はなぜ老いるのか
2 「自己ペット化」した人間
3 何のために生きるのか
4 遺伝子のプログラムとは?
5 「育つ」「育てる」プログラム
6 「選択」と「学習」
7 性は何のためにあるのか
8 男と女
9 「老い」へのたくらみ
10 人生は人さまざま―『年齢の本』
11 五十代からの「老い」―『年齢の本』(その2)
12 人生とはシナリオを演ずること
13 死はそれほど大げさなことではない
14 「ミーム

 老後の指針にはならないが、人間の老化について不愉快にならずにいまひとつ広い視野を得たい人にお勧め。ナルホドと納得することがいっぱい見つかります。