武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(14)

 レストランや旅館、ホテルなどの華やかな食事を、作っているサイドから考えてみたことがおありだろうか。
 どんな献立やメニューにするか、季節感やお客の好みなどを考え、調理員の手間や仕入れ先や食材コスト、配膳から残渣の処理までを総合的に検討し、到達した結論で試作してみて、最終的に決定したら、後は毎日同じ作業を繰り返すことになる。仕入れから調理、盛りつけて配膳し、食器を回収し洗い片付けるという同じ作業がサイクルをなして回り続ける。これがビジネスとしての料理プロセスであり、基本の流れはどこも基本的には同じ。グレードの違いを出すための献立の変化を考えてあるが、組み立てが決まれば同じことの繰り返しは変わらない。
 品数が多くて、お客の立場から見ると初めて献立なので、目新しい感じはするが、作る側からは同じ作業の繰り返しであり、シジフォスの反復と変わりない。強制された苦役でないこと、労働は賃金で償われることが違うが、それが仕事というもの。
 おそらく病院と学校や保育園などの給食、社会福祉施設などの公共施設の調理室が、毎日献立の変化があるので、調理スタイルとしては一番大変な現場ではないだろうか。変化のある調理を、大量にこなさなければならないという点で、調理員の方々の苦労が偲ばれる。 
 家庭料理に、過度に美味や変化を求めるのは、無益なだけでなく危ういことである。繰り返しに耐えられる、安定感のある献立を組み立てることのほうが大事、十年一日のごとく繰り返して飽きないこと、作る側にも食べる側にも、無理も我慢も必要ない自然な食事の流れが出来ていくことが何よりも望ましい。
 食べるだけならレストランを変え、注文するメニューを変えれば、食べたいものを自由に選択できるが、作って食べるとなると、外食で食べるのと全く事情が違ってくる。作ることをしないで、ただ食べるだけの人の食談議は、虚しい美食自慢に行き着くしかないのは無理もない。
 従って、家庭における毎朝の朝食は、次々と変化を求める出版文化と馴染まない。十軒の家庭には十通りの朝食があり、それぞれは千差万別ではあるが、時系列でたどれば同じことの繰り返し、それが普通の庶民の暮らしというものである。
 おそらく嗜好や体質、食費に支出できる家計によって、求める食材の構成が変わってくるだろう。肉が多くなったり、乳製品が多くなったり、わが家のように野菜が多くなったり、長い間の試行錯誤の繰り返しによって、食事のスタイルは自然に出来上がって来る。


 前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。


4月某日の朝食(上) ・味噌汁(油揚げ、豆腐、干し椎茸、ネギ、切り干しダイコン)・ご飯・ブロッコリーの温野菜・ニンジンの温野菜・京菜のおひたし・ホワイトアスパラの温野菜・菜の花のおひたし・カボチャの温野菜・椎茸の旨煮・ちりめんじゃこの佃煮・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳


4月某日の朝食(下) ・味噌汁(油揚げ、干し椎茸、切り干しダイコン、ネギ)・ご飯・京菜のおひたし・ニンジンの温野菜・ブロッコリーの温野菜・カボチャの温野菜・菜の花のおひたし・舞茸とナメコの旨煮・椎茸の旨煮・ホワイトアスパラの温野菜・焼き薩摩揚げ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳