武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 退職者の日々、乱読からの転換(2)

 乱読からの転換などと気取ってはみたものの、乱読以外の読書法が見つかったわけではなく、単にこれまでのように次から次へと手当たり次第に本が読めなくなったに過ぎないのが実情。読むスピードも遅くなったし、読んでいられる時間も短くなった。当然にも、図書館から借りてくる冊数も減り、本の購入金額も減った。

 その代わりと言ったらなんだが、以前に読んだ本を手にとってぱらぱらめくり、記憶に残る印象的な部分を拾い読みしたりする。何だか高齢者の懐古趣味のような、ノスタルジックで淡々とした読書時間を過ごす時間が少なくない。展開を追いかける読書ではなく、歩きなれた道をたどるのんびりした逍遥のような読書といえばいいか。

 本好きの高齢者にも、自慢できることが一つあることに気が付いた。これまで読み飛ばしてきた本の数、その量だけは半端ではない、これこそ年の功。一度読んだ本は、記憶は次第にあやしくはなっているものの、要旨やあらすじ程度は頭に残っている。気に入って繰り返し手に取った本は、まだまだどこに何が書いてあるかまではっきり覚えている。悲しいことにその一部は蔵書となって、今住居の一部を占領して生活を圧迫しているという次第。

 やはり、老後の読書の楽しみの一つは、処分しないで残して置いた蔵書との付き合い方にあるような気がしてきた。まだ読んでない本を貪るようには読めなくなったが、愛着のある本をあちらこちら拾い読みして過ごす時間にも、新鮮な刺激こそないものの、なかなか良い味がある。

 そのためにも、処分しないで残しておいた蔵書のすべてを、アクセス可能な状態にしておくことが重要になってきた。以前にも書いたけれど、持っていても手に取れない状態になっている本は、死蔵書籍である。この死蔵にはまったく意味がない。死蔵の解消方法は、取り合えず全ての本の背表紙が見えるようにすること、これはハード面。もう一つは、ある程度の分類整理を施してどこに何があるか頭に入っているようにすること。そして改めて精選して不要図書は処分すること。

 簡単なようではあるが、蔵書が1000冊を超えるあたりから、この二つの条件は容易なことではなくなる。自分の読書傾向にあった分類整理ができるかどうか。この模索もまた新たな辛くて楽しい試行錯誤となりそうだ。