武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「君が代」伴奏拒否の波紋 心凍る教育現場からのレポート

toumeioj32005-05-22

「音楽は心で奏でたい」福岡陽子(岩波ブックレット
 一読、著者が追い込まれた苦境の理不尽さに背筋が寒くなった。文中に「心凍らせて」というフレーズが出てくる。歌手、高山巌のヒット作だが、最近の教育現場が心を凍らせるような状況にあることが手に取るように伝わってくる。
 本書は大きく6つのパートに分かれている。まず始めに「音楽の素晴らしさを子ども達と」と題して、著者の生い立ちと小学校の音楽教師になったいきさつが語られる。幼い頃の思い出に始まり、ふとしたきっかけからピアノのお稽古に通いだし、小中高の音楽教育の中で徐々に音楽に目覚めてゆく。小さなエピソードを通して語られるほほえましい著者の子ども時代。音楽教師になってからの「世界の音楽」の実践も素晴らしい。
子ども時代に、私達もまた著者のようにささやかな音楽体験や音楽的なエピソードから広大な音楽の喜びの世界へと入って行く。才能と偶然のきっかけにより、音楽教師になったり音楽を職業とするミュージシャンになったり、私のように聴くだけの人になったり、音楽への道は次第に細かく分かれて行く。始まりは幼年時代や小学校。その音楽人生の始まりの場所で、なんという悲しい権力の汚濁が発生しているのだろう。この国の子ども達は、この国の音楽教育の不幸に気づいているだろうか。
 「音楽が道具にされるとき」で、赴任先の小学校の入学式で君が代のピアノ伴奏を校長に命令され、伴奏拒否を理由に戒告処分された経過が語られる。1年生の入学式で、音楽人生の始まりの場所で、この国、とりわけ東京の小中高の公立学校に広がっている静かな心凍らせる圧制。音楽は楽しい。音楽のない社会や人生を想像することさえできない。そんな音楽の始まりの場所で、引き裂かれた状態になっている音楽教育の悲劇に先を読むのがつらくなる。著者が、自分の人生の最良の選択として選んだ音楽教師の立場を、悲痛なものにする教育行政とは、いったい何。悪いことをしたのなら、責めを受けるのは当然だが、私にも著者が悪いことをしたとは思えない。君が代を伴奏しないということが果たして悪いこと?。結果は処分。著者の立場にわが身をスライドしてみると、その無念さに心が凍りそうになる。
 「ピアノ裁判へー心とからだ、私らしく」人事委員会の裁決で主張を退けられ、いよいよ自らの良心を守るため裁判へと進んでゆく著者の心境は痛々しい。裁判を続けながら、再びやってくる卒業式や入学式の試練、心痛のあまり病院に通い、卒業式当日にはついに病気になってしまう著者。世界中のどこかの国で音楽教師が、この国のようにつらい立場に立たされる国があるだろうか。著者の裁判は、東京地裁、東京高裁と相次いで敗訴となり、最高裁へ上告するところでこの本は終わる。この先には、現在進行形の現実があるということだ。
 「私の中の「君が代」」では、著者の「君が代」認識が語られる。「楽しくなければ音楽じゃない」著者の音楽への熱い思いがむすびとなっている。この人は本当に良い音楽教師なんだ。
 最後に、附録として音楽家の意見陳述書として、崔善愛氏、林光氏、坂本龍一氏の3氏の意見が載っている。中でも、在日として語る崔善愛氏の意見がぐっとくる。
 薄い70ページばかりのブックレットながら、訴えてくるものは相当に重い。この国の音楽教育の一側面を知る上で、是非お薦めしたいメッセージブックである。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0093470/top.html#03