武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

[音楽]『ハイドン ロマンの軌跡 弦楽四重奏が語るその生涯』 井上和雄著/音楽之友社発行/1990/2


ハイドンの解説書を探していて本書を手にした。日本語で読めるハイドン関連の良書になかなか巡り合えなかったので、この本に出会えたことは素直に嬉しい。
著者紹介をみると神戸商船大学経済学教授なっており音楽は専門外、何でも学生の頃からブタコレラ・クヮルテットと言う奇妙な名前のアマチュア四重奏団の第二バイオリンをつとめているクラシックマニアらしい。
一読、これまでに読んだどのハイドン本よりも分かりやすく、ハイドンのことがよく分かっている著者に初めて出会えたのがとても嬉しかったので内容を紹介してみたい。

著者の方法論ははっきりしている。楽曲を解説する時には、徹底してクヮルテットの演奏者の視点から経験と演奏実感をもとに語ること、このユニークな立場から瑞々しい解説文が流れ出る。
もう一つは、さすがに経済学者らしく沢山の文献を駆使した人格形成過程の追跡、文献を鵜呑みにせずきちんと分析を加えつつ成長過程を丁寧にたどってゆく、ここからは説得力が滲み出る。
この著者の楽曲分析の方法は、ハイドンの成長過程のドラマを梃子にして、楽曲の音楽的な美しさを解析するというもの。仲間との合奏を前提に楽譜を読みこむこの著者の文体の何と生き生きしていること、加えて読み手を引き込む鮮やかな言葉の使いまわしが素晴らしい。記述は具体的で詳細を極め、しかも愉しげで生彩に富む。本書ではこの部分を読むのが一番愉しかった。演奏者の視点を軸にしたこの著者の読み込み方は半端ではない。

ところで、ハイドンの書いた弦楽四重奏曲は多く63曲もある。この本では以下の曲が選ばれ、詳しく解析されている。参考のため曲目も引用しておこう。

弦楽四重奏曲変ロ長調 Op.1 No.1

弦楽四重奏曲ニ短調 Op.9 No.4

弦楽四重奏曲ハ長調 Op.20『太陽四重奏曲』 No.2

弦楽四重奏曲ニ長調 Op.20『太陽四重奏曲』 No.4

弦楽四重奏曲変ホ長調 Op.33『ロシア四重奏曲』 No.2『冗談』

弦楽四重奏曲ハ長調 op.33『ロシア四重奏曲』 No.3『鳥』

弦楽四重奏曲ハ長調 Op.50『プロシア四重奏曲』 No.2

弦楽四重奏曲ハ長調 Op.54『第1トスト四重奏曲』 No.2

弦楽四重奏曲ニ長調 Op.64『第3トスト四重奏曲』 No.5『ひばり』

弦楽四重奏曲ト短調 Op.74『第2アポーニー四重奏曲』 No.3『騎士』

弦楽四重奏曲ハ長調 Op.76『エルデーディ四重奏曲』 No.3『皇帝』

弦楽四重奏曲変ロ長調 Op.76『エルデーディ四重奏曲』 No.4『日の出』

弦楽四重奏曲ニ長調 Op.76『エルデーディ四重奏曲』 No.5『ラルゴ』

弦楽四重奏曲ト長調 Op.77『ロプコヴィッツ四重奏曲』 No.1

晩成型の天才の典型であるハイドンの歩みは、音楽家にしては遅い。弦楽四重奏の世界で自分の音楽を確立するのが40歳。1章と2章で描き出されるハイドンの自己確立のプロセスは苦難に満ちているが留まることを知らない着実な歩みはゆるぎない。この2章を読んだおかげで、わたしは初期の弦楽四重奏がたたえるハイドン流歌心の愉しさを再認識した。民衆の心に通じる庶民の歌心がハイドンを導いたという指摘には説得力がある。
3章と4章でも、壮年期のハイドンの豊穣をアマチュアの演奏経験を軸に瑞々しく展開して、読んだことのないような柔軟で豊かな楽曲解説が展開されてゆく。どの曲にも共通することだが、楽曲への読み込みの深さが素晴らしい。クヮルテットの演奏者の読み込みとは、このように鋭く緻密なものなのかと脱帽させられる。日頃いかに漫然としか音楽を聴いていないかということを痛切に実感させられた。
以下に目次を紹介しておこう。

第1章 遅れてきた天才(若葉の輝き/生いたち/青春の獲得/楽長として)
第2章 新しい道(果実/疾風怒濤/ルイジア/単純さへの復帰)
第3章 出会いと別れモーツァルトとの出会い/センチメンタリズム/舞い上がる雲雀/脱出への希い/ロンドンへの旅)
第4章 成熟(職人から芸術家へ/真正のロマン/諦念/もう1つの花)

ハイドンの真価がこの国ではあまり理解されていないことをお嘆きの方には、是非一読をお勧めしたい。