武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『ハイドン新版 (大音楽家・人と作品2) 』 大宮真琴著 (発行音楽之友社1981/07/20)


 武蔵野でも梅雨明けの厳しい暑さが続いている。だが、どうした訳か例年に比べて、蝉の鳴き声があまり聞こえない。<蝉時雨>などという風流なサウンドの洪水が、何時になったら体感できるかいささか気がかりである。
 このところ暑さのせいもあるが、ふとした切っ掛けでハイドンピアノソナタ全集(Pオルベルツ)を入手し、折に触れてCDを部屋に響かせている。どれを聞いても、くどくなくスッキリとしていて、明るいがはしゃぐわけでもなく、気持ちの良い時の流れを演出してくれる。すっかり気に入って9枚のCDを取っ替え引っ替え聴きまくっている。
 そんなことから背後にいる、作曲家が気になり、膨大な交響曲弦楽四重奏曲、宗教音楽などを作ったハイドンの人物像が知りたくなった。この国ではそれほど人気がないのか、評伝や伝記もあまり多くない。検索してたまたま手にした本書が、幸運にもとても良書だったので、没後200年を少し過ぎてしまったが、紹介してみたい。日本史の年代では、吉宗の享保の頃の人、日本人の研究者によるハイドンの伝記は、これが最初のものらしいが、非常に良くまとまっているのに感心した。気付いたところを拾い出してみよう。
①著者自身がまえがきで断っているように、本書の記述は「正確にドキュメントを綴り、その人物に対して読者がめいめいのイメージを作り上げるための手がかりを提供する(略)方法」を採用したとあるように、筆者の主観や価値判断を背景にしりぞけて、努めて客観的な記述を心がけているのが特徴。実際に生起したであろう出来事の場所と期日をつないで、資料から豊富に引用しながら伝記的な情景を描き出してゆく。この方法は地味ではあるが、記述の作法としては間違いがない。エピソードや引用の選択の背後に濃密に著者が潜んでおり、読み進む時の印象は意外にも文学的、物語を読むように読みやすい。
②内容的にはやはり幼少年期(1732−49年)と青年期(1749−60年)が、分量はさほど多くはないが、印象が強かった。5歳半で親元を離れて音楽的な徒弟修行が始まり、教育面で生活面でも決して恵まれたとは言えない少年期、だが自らの美声と音楽的才能により吸収すべきものをしっかりと身につけ、着実に成長していく姿が頼もしい。変声期にいたりカストラートにされそうな去勢の危機があったり、青年期のウィーン彷徨を体験したりしながら、豊かな民衆音楽の中に身を浸して行くウィーンにおける青春時代の記述が身につまされる。この時期があったからこそ、その後の汲めども尽きぬ豊穣なハイドンの創作活動があったのではないか、という気がした。音楽都市ウィーンは、ハイドンの音楽的な原風景だった。
③少ないが壮年期の印象的な恋愛模様が、印象的。また、意外にも心満たされなかったらしい家庭的な孤独も印象的。謹厳実直を絵に描いたような宮廷音楽家の日々を送ることにより、パトロンの高い音楽的趣味に答えるべく日々務めに励んだ結果が、ハイドンの膨大な作品創出だった。ハイドンが誰からも信頼され、類を見ないほど豊かで成功した音楽家人生を送ったのは、一度つかんだ幸運を確実にものにする堅実な人間性のよるもの。クリエイタ=気まぐれと言う近代の図式から遠く離れた人物だ。モーツアルトがパパと頼ったと言うのもよく分かる。ハイドンは良い意味での昔の大人だった。17世紀のスペインを代表する画家ベラスケスを連想する。
④最晩年の70歳を過ぎても、倦まず弛まず創作の情熱を燃やし続ける姿が何とも言えない。何があっても崩れない規則正しい日々の日常生活、自分を律し続ける姿勢が、最後までハイドンを支え続ける。何かあると直ぐにだらしなく崩れてしまう傾向があるので、少し自戒の念がわいてきた、老ハイドン畏るべしの感がある。
⑤本書の伝記的な部分もさることながら、後半につけられた資料的な部分が嬉しい。当時の楽譜出版事情により、ハイドンの作品の真偽の判定自体、かなり難しいことらしい。膨大な作品群が今なお研究・整理の途中らしい。ハイドンが残した音楽が、謎に包まれた豊かな古典音楽の宝庫だということを改めて実感した。
 最後に、本書の目次を引用しておこう。

《生涯》
1 幼年時代(1732−49年)
 ハイドンの家族
 生地ローラウ
 ハインブルク
 ステファソン寺院の合唱童児
2 青年時代(1749−60年)
 ウィーン放浪
 ミヒヤエラーハウス
 ヴアァインツィアール
 再びウィーン
 モルツィン伯爵の楽長
3 エステルハージ家の副楽長(1761−66年)
 アイゼンシュタット
 エステルハージ家の楽団
4 楽長ハイドン(1766−80年)
 エステルハーザ宮
 エステルハーザの劇場
 エステルハーザのオーケストラ
5 作曲の成熟(1781−90年)
 名声の拡大
 愛と友情
6 ロンドン旅行(1791−95年)
 第一回ロンドン旅行
 再びロンドンヘ
7 晩年(1791−1809年)
 晩年の作曲
 余生

《作品》
作品目録・作品全集
1 交響曲
2 協奏曲
3 室内楽
4 教会音楽
5 舞台音楽
6 世俗声楽曲
《附》ヨーゼフハイドン全集JHW
年表
交友人名リスト
作品表