武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『アリになったカメラマン/昆虫写真家・栗林慧』 写真・文/栗林慧 (発行講談社2002/2/27)


 昆虫写真家の一人、栗林慧さんが撮る昆虫写真は、一言で言えば<あり得ない写真>である。少しでもレンズの性能について知識のある人なら、栗林さんの写真を見たとたん目を瞠り次に首をかしげるに違いない、どうやってこんな写真が撮れたのだろうと。
 この本は、そんな超絶技巧を駆使するカメラマン栗林慧の生い立ちと、カメラ改造への情熱と撮影のノウハウがわかりやすく書かれた自伝的読み物である。私が行く図書館では、写真関連の書架ではなく、児童書のところに収納されていた。確かに、素晴らしい児童読み物には違いないが、子どもの読み物にとどめておくのは如何にも勿体ないので、ここでご紹介したい。
(1)はじめの1章から3章までは、前書きと生い立ちの記を兼ねた自伝的な部分、幼い頃の長崎での自然に囲まれた生活、父親を亡くして東京に転居、指先の器用な工作少年の日々、ディズニー記録映画「砂漠は生きている」との出会い、中学卒業と共に働きだして次第に<生物生態写真家>の夢をはぐくむようになるまでの青年前期までが瑞々しく語られている。
 感じやすい子ども心に染み込んできた長崎の自然と父親のいないさびしさ、経済的に厳しい少年期の中で育まれた感受性豊かな独創性など、栗林慧さんの幼少年期の原風景が淡々と語られていて、ファンにとっては興味深い。
(2)4章から6章までの<カメラのしくみ>と題された3章は、非常に分かりやすいカメラの原理的な解説部分、子ども向けに作られた本なので挿入されたのかもしれないが、自伝の流れを一時中断するカメラ概論にあたり、カメラにある程度詳しい人ならこの部分を飛ばして読んだ方が面白いかもしれない。
(3)1章から3章と次の7章が、プロの<生物生態写真家>誕生までの生い立ちの物語。「ファーブル昆虫記」との決定的な出会いが印象的、栗林さんにとってアリが如何に大切な特別の昆虫なのか、アリが生態写真家栗林の原点だということがよく分かります。

(4)8章から11章までの、カメラ改造と撮影技術の工夫のくだりが、この本の白眉、こんな写真が撮りたいという目的から発して、徹底的に撮影技術の工夫を繰り返す作者の姿勢には、確かに昆虫の生態観察に生涯をかけたファーブルの姿が見え隠れする。今ある物で何とかしたり妥協したりするのではなく、何とかして自分で造ってでも目的を達成しようとする並外れた執念、そこからあの独創的な映像が誕生してきたのだと言うことが、リアルに伝わって感動的、誰にも真似の出来ないプロ根性の輝きがある。分解された沢山のレンズとともに映っている栗林さんのスナップには言葉を失う。
(5)8章が語る独創の「昆虫スナップカメラ」、9章の昆虫の飛ぶ姿をとらえるための「光センサー撮影システム」と「超高速ストロボ」、10章の昆虫の飛ぶしくみをとらえるための「ストロボストリーク影技術」、11章の「クリビジョン」別名「超被写界深度接写カメラ」によるアリの視点、分かりやすくやさしく書かれているのでサラリと読めてしまうが、その苦労たるや並大抵ではないはず、抜群の目的意識と技術開発力には脱帽するしかない。この国の戦後もの作り精神の発露とでも言えばいいか。
(6)文章は、子ども向けを意図しているらしく、平明すぎるほど平明で読みやすい。もう少し苦労の足跡をかき込んでくれた方が大人向きには良かったかもしれないが、それは無い物ねだり。教科書の説明文のようなわかりやすさ。
 本書の目次を引用しておこう。

1 虫たちとともに
2 ふるさとの自然に育てられ
3 東京へ
4 カメラのしくみ(1)光をとらえる
5 カメラのしくみ(2)鮮明な映像を作る
6 カメラのしくみ(3)映像を工夫する
7 プロカメラマンをめざして
8 昆虫スナップカメラ
9 昆虫の飛ぶすがたをとらえたい
10 昆虫の飛ぶしくみをとらえたい
11 アリの視点をめざして
12 とうとうアリになれた!
13 さらなる課題へ


 栗林さんの驚異の昆虫写真の一端は、以下のサイトで瞥見できるが、クリビジョンの本当の凄さは写真展などの大画面でしか分からないだろう。写真集もたくさん出ています。http://www5.ocn.ne.jp/~kuriken/
(追記)学習研究社から2001年にでた写真集「栗林慧全仕事」には、栗林さんの写真の凄さが凝縮されている。高価な写真集だが、是非手にとって見てもらいたい。海を見ているバッタの表紙の写真は、栗林さん以外には絶対撮れない傑作です。

第1章 虫の目になりたい(3cmから∞まで―カメラの常識を破った超深度接写/昆虫生態スナップ写真の誕生―栗林写真の原点)
第2章 時間を止めたい(5万分の1秒の“瞬間”を写し止める/空中で立ち止まった昆虫たち)
第3章 風と水と光と
第4章 アリの目になる―究極の超深度接写