武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『蕨野行』村田喜代子著(発行文春文庫)

 鳥獣戯画の筆致で書かれた、人間喜劇を見ているよう。悲惨極まりない棄老伝説を題材にした物語ではあるが、読後感は持ち重りのするズシンとした手ごたえだが奇妙にほの明るく透き通った印象。映画や演劇の原作として、複数のメディアから歓迎された作品、分かるような気がした。

 読み始めた時は、奇妙な日本語に一瞬違和感を感じたが、数ページで違和感はなくなり、逆に物語の雰囲気を作り出すために必要な文体だったということがわかり、たちまち物語の推進力に絡めとられた。この物語は、嫁と姑との呼びかけだけで成り立っており、作者が語るいわゆる地の文が一切ない。すべてを一人称の嫁姑の視点から語るようにしたのが、このあり得ない物語を成功に導いた鍵に違いない。
 同じ山村の棄老伝説を題材にはしているが、深沢七郎楢山節考とはずいぶん違う。楢山節考の楢山は、老人が自分の力だけではとても行くことも帰ることもできない人跡未踏の険しい山奥に設定されていたが、この物語の舞台となるワラビ野は、村里からわずかに半里(2km)に近くにあり、健常な老人なら苦もなく自分の足で往復できる距離にある。姨捨ではなくて、軽いハイキングに出かけるような身近な所、老人ホームのような感じなのだ。
 この設定は絶妙と言っていい。深沢の楢山では、行って帰れぬ棄老の異界が人里離れた地理的な外部として存在していたが、ワラビ野は、山村の秘事あるいは掟として、老人たちや村人の心に内面化されて存在する。姨捨の話が内面の話に進化した形。余りにも遠くにあり過ぎて見えなくなっていた老いの世界が、この設定により、村の日常に引き寄せられしっかりと見えるようになった。
 昔の山国の暮らしでは、農業とわずかばかりの狩猟採集などの生活に関係ある範囲が、その山村の里山であり生活圏の範囲だった。その生活圏から一歩でも外に出ると、そこは異邦であり他所の里や人の住めぬ異界だった。わらび野の丘は、そんな山国の里山の外れ、生活圏のぎりぎりの外縁に作られた、老人たちの野外生活の場。高度成長前のこの国の山国の暮らしを知る者にとって、この設定は極めてリアル。いいところに着目したと感心する。
 この設定によって初めて、ワラビ野で過ごす老婆と村で暮らす若い嫁との、心の交流が可能となり、棄老した方の村人の出来事と、棄老された方のワラビ野の出来事が、読者の中でクロスしてダイナミックな奥行きのある二つの世界の物語となって動きだす仕掛けになった。
 この物語は、次のような7章によって構成されている。

第1章 生きたるワラビ
第2章 芽吹く丘
第3章 空行く鳥
第4章 憐光
第5章 漂うワラビ
第6章 天道の丘
第7章 かげろうの朝

 物語は、舞台となる山村に、冬が終わり春が訪れるところから始まり、厳しい冬に村々が閉ざされるところで終わる。物語の進行は、豊かで荒々しい自然に包まれて、季節の移り変わりとともにゆったりと進行する。押伏(オシブセ)という地域の上中下三つの庄の話となっているので、西日本または中部地方あたりのことなのかもしれない。役職名や年貢の取り扱いからすると、時代は江戸期のことと思われるが、何時の何処のことかは、あまり重要ではない。
 それよりも、この巧みに組み立てられた物語世界の仕組みが、何とも言えず素晴らしい。この押伏と呼ばれる三つの庄を含む山村には、老人が60歳になると、春の土用(4月17日頃)に里を離れ、ワラビ野の丘にある年寄りの小屋で暮らすという、秘事とされている掟があり、主人公の老婆レンは、この年60歳を迎えた3人の爺と5人の婆とともに、ワラビ野の人となる。
 物語の進行とともにあきらかとなってくるワラビ野暮らしの設定が、何とも言えない。曰く、名前を捨て言葉を捨てるという二つの掟、少々の着替えと木椀、夜具しか持たない最低限の身の回り、畑作りを禁じられた日雇いのその日暮らし、働けるうちは人手が足りない山里の安価な労働力として使い、老人を徐々に淘汰してゆく抜群のアイディア、この巧妙な仕掛けは実在したのではと思いたくなるほど見事。気候がよくて、健常なものには何ともなくても、季節気候が悪化すれば直ちに飢えにつながり、身体が衰えたものには生き延びる術のない過酷な条件、老いた者にとっての言わば極限状況が美しい自然が充ち溢れるワラビ野の世界。
 この老いの極限状況としか言いようのないワラビ野で、9人の老婆老爺の暮らしが展開してゆく。ワラビ野を生みださざるを得なかった山里でも、飢餓すれすれの過酷な生活が強いられ、ワラビ野の暮らしからは少しずつ脱落して亡くなる老人が出てくる。ワラビ野でも、人里でも、物語の軸になるのは命の誕生と死をめぐる極限的な姿。肥満や食べ過ぎが問題となる現代から、二百年は離れていない時代の貧しい山村の物語が、生命の誕生と死の神話的な絡み合い舞台として、見事に読む者を引き付け離さない。
 村里が天候の異変で飢饉に見舞われるとき、ワラビ野の老人たちもまた飢餓に包囲されるが、狩猟採集によってなんとか生き延びようと決意し動き出す時の、老人たちは生き生きと動き出し、束の間の生の喜びに輝きだす。この物語の小さなピーク。やがて、厳しいを冬を迎え、何とも言えない玄妙な味わいの終幕にむかって物語はすすむが、ああ、こうゆう終わり方があったので、いくつもの不気味な誕生にまつわる奇談が、伏線として置かれていたんだなと納得させられるような見事な終わり方。これしかなかったんだと思わせる動かしようのない結末。そのようにして幕は降りる。
 詳しく書き過ぎると読書の感興を削ぐので、これ以上は書けないが、これは、いろんな年代の人に読んでもらいたい人生の書、物語の面白さから見ても読んで損しない。楢山節考に匹敵するか、もしくはそれ以上かもしれない問題作にして傑作。是非、手に取ってほしい。