武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『<老い>をめぐる9つの誤解』ダグラス・H・パウエル/久保儀明・樽崎靖人訳(青土社2001/10)

《老年期を快適に生きるための最良の処方書》
自分が高齢者の一人であることを素直に自覚し、老年期を生きる自分を頼みとし誇り高く快適に生きるための励ましを得るために、数年に一度は読み返すことにしているバイブルのような本が何冊かある。
この本はその種の一冊として、これまで数回読み返しており、その都度、得るところが少なくない私的にはかけがえのない良書である。最近では本は、手放すときのことを考えて、アンダーラインは引かないことにしているが、この本だけは盛大に線を引いて、気に入ったところや参考になる箇所が目立つようにしてある。付箋も何カ所も貼ってある。
この本のどこがそんなに気にいっているのか、思い付くままに箇条書きにして拾い出してみよう。
(1)私は複数の翻訳者が翻訳した本が好きである。一人の言語能力では限界のある個人的偏差をうまくすれば回避できる上に、協議や突き合わせの過程でうまれる個人をこえた分かりやすさが期待できるからである。本書の日本語の周到な分かりやすさは申し分なし、長文の複雑な構文がすんなりと頭に入ってくる。可能な限りカタカナ語をおさえた、落ち着きのある日本語も好ましい。読み易くなければ何度の読み返す気にはなれない。
(2)本書の骨組みが非常にがっしりしている。<老い>に対処する方法を、著者は3点に絞り込む、「最適化」、「代償」、「選択」の3つのキーワードがそれである。メインは最適化であり代償や選択はその手段と考えることも出来る。この3つ方法論が、9つの場面に分けられて、交響詩のように変奏される。この9章の設定が、老いの実状を捉えて余すところがない。
(3)本書の記述が焦点を当てる割合は、老齢による知的な能力の衰退に7〜8割、身体的な能力も知能に影響を与える側面に2〜3割程度触れており、この本に私が期待する要求にうまく適合している。老化する身体のメンテナンスについては、別の本にあたれば良いしその種の本は数多い。
(4)「9つの誤解」の並べ方がまた巧みである。「誤解その1」が事実上、本書の総論的な序章となっており、急激に進展しつつある高齢化社会にとって、高齢者問題はいかに重要で意義深いテーマであるか、具体的に鮮やかに示され、続く各論の配列も申し分ない。
(5)各章の構成が、<短い前置き><誤解と現実><要約>と、この3つの組み立てで共通していて、特に<誤解と現実>におけるいくつものデータを示した論証の手続きには力強い説得力がある。老齢化の事実に対する厳しい指摘と暖かい助言の絶妙な組み合わせに、軽妙なウイットが加味されており、文章のふくらみは豊か。
(6)随所に引用されている筆者が見聞きしてきた高齢者のエピソードが良い。良い事例も悲惨な事例も、節度をもった紹介なので、気持ちよく読みすすめる。著者自身の体験談も自慢話にならない程度に抑制されているのが微笑ましい。
(7)膨大な研究成果の蓄積を視野において記述されているので、くだけた文体でありながら、私的には不審が募ることはなかった。穏やかな信頼の気持ちは最後まで持続できたおかげで、自分にも出来そうなことがあったら何か参考にしてやってみようかという気持ちが湧いてくる。それにしても米国の老年期研究の幅と奥行きには、ほとほと感心させられる。本書の背景には、豊かな老人問題研究と、政治の取り組みがあってのこと。
(8)まことに老化のプロセスは容易ならざる不可避の隘路なのである。常識的に捉えられている老化現象の9ポイントを上げて、本書は誤解であるとするのだが、その誤解のニュアンスの多様なこと。例えば4章の「老化とともに真っ先に衰えるのは記憶力である」であるが、現実はさらに厳しく、記憶力以上に様々な知的能力が衰えることを実証し、ヒヤリとさせてくれて、だからこそ何をなすべきかの対処法まで示唆してくれる。
(9)もし困難に立ち向かうことがお嫌いでなければ、私もそうなのだが、この本にはやがて年齢と共に到来する困難と、その困難に如何に立ち向かうかのアイディアがふんだんにちりばめられていると言っておきたい。病気にだって、その病気を自慢して愉しむという逆転の発想もあるとおり、困難な隘路を何とか愉しむ手立てがないわけでないことを本書は丁寧に教えてくれている。
(10)記述はきわめて明快、押しつけがましいところはどこにもなく、著者の明敏で朗らかな人柄が文体にも表れている。老化現象を我が身に訪れる不可避のドラマとして愉しんでみようかと、積極的な気分にしてくれるところが本書の良書たる所以である。
(11)丁寧な註と索引が付録に付いているもの有難い。きちんとした装丁と本造りにも好感がもてる。
老化に興味のある若い人にも、訪れつつある老化に心穏やかならぬ中高年にも、老境を悲憤慨嘆して暮らしているご老人にも、本書は一読に値するとお勧めしておきたい。
最後に、本書の目次を引用しておこう。

 はじめに
1 老化とは、まったく退屈な話題である
2 老化というものは、多かれ少なかれ同じようなものである
3 不健康な肉体には不健全な精神が宿る
4 老化とともに真っ先に衰えるのは記憶力である
5 脳は使わないでいると退化する
6 老犬に新しい芸を教え込むことはできない
7 老人は、連帯感を抱く対象もなく孤独である
8 老人はふさぎの虫であって、その理由など数えきれたものではない
9 人生の知慧とは、明敏な頭脳の持ち主が老齢に達して初めて身につくものである
 まとめ 最適の老化のための指針