武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『石田徹也―僕たちの自画像―展』インプレッション


 穏やかな冬晴れの日和になったので、練馬区立美術館で開催されている石田徹也展に行って来た。2005年に不慮の事故に見舞われ31歳の若さでこの世を去った石田徹也は、数奇な運命にもてあそばれた画家の一人に入るだろう。生前は、いくつかのコンテストで入賞していたものの、その膨大な作品群を正当に評価される機会に恵まれず、遺族が作品の始末に困り、廃棄する目的で制作した遺作集がきっかけになって注目を浴び、多くの人に知られるようになった。
 かく言う私も、TVの紹介で眼にして遺作集を見ただけで、これまで原画は見たことがなかった。それでも気になる面白い絵を描く画家だという言う認識を持ちつついつか原画を見たいと思い続けてきた。 (画像の左手の階段を上ったところが美術館の入り口)
 今日、初めて原画を見てみて、想像していた以上に絵自体に力があるのに驚愕した。写真製版では分からなかったが、多くの作品は予想していた以上に大きく、画面からせり出してくるような表現力の圧力を感じた。個人の居宅のリビングなどに飾って、所有者の心を慰めるような絵ではない。会場の大きな壁にまとまった数の作品を展示して大きな空間を囲み、石田徹也独自の世界として丸ごと鑑賞すべき性質の作品だった。

 ①この美術館がおそらく初めて<自画像>という言葉をコピーとしてつかったのではないかと思うが、石田徹也の絵は、誰がみてもその全てが彼の自画像であることは、間違いない。これまでに描かれた大多数の自画像と違うのは、現代という特異な状況の中に囚われている自分の自画像を時代とともに描きだしていることだ。かつて実存主義の哲学が、人間存在を《世界=内=存在》として捉え、身の回りのあるがままの日常的な生活の細部を現象学的に克明に描き出していたことを思わず思い出した。
 ②石田徹也の絵は、現代青年の実存を捉えた、きわめて今日的な絵画だ。僅か10年足らずの創作活動だが、2000年頃を境界にして作風が前期と後期に分けられる。自画像の周辺に配置する現代社会を暗喩するイメージが、ストレートで単一なまとまりを持っているのが前期、単一なまとまりを破り、複数のモチーフを幾重にも寄せ集め、時間的にも空間的にも複雑な広がりを持つようになってきたのが後期、この後期の作風でさらに大きな大画面描いた鏡の乱反射のような大作を見てみたかった。
 ③無い物ねだりだが、あと10年元気だったら、おそらくこれまで誰もが見たことのないようなとんでもない現代人の自画像が見られたのではないだろうか。西洋絵画の大作を見ていると、画面のどこかに画家自らを描き込んだ自画像ならざる自画像によくお目にかかる。ベラスケスの<ラスメニーナス>しかり、ゴヤの<カルロス4世の家族>しかり、宮廷画家の《世界=内=存在》は、宮廷という状況に内在するほかはなかったが、宮廷を喪失した現代の画家は、人間性を疎外する現代的な状況そのものを一種の<宮廷>として生きるほかに術がないのだ。その意味で、石田徹也は、現代の自画像画家であると位置づけるのがふさわしい。この美術館はいいところに着目したので、このポイントをもう少し掘り下げた展示を工夫するともっと良かったのではないだろうか。<僕の自画像>ではなく<僕たちの自画像>としたところがとても良い。
 ④自画像の周辺に描き出された、いろいろな物象の細部にこだわった克明で緻密な表現が素晴らしい。どこか汚れたり錆びたり壊れかけたりしていて、本来の機能に支障を来しているような、機能不全感のある哀れな物象に何とも言えない哀感が滲む。自画像の男の子の表情の乏しい空虚な眼と併せて、隅々まで細部を見つめて、自分なりの発見を楽しむ見方をお勧めしたい。
 石田徹也は、とにかく原画を見なければ、分からない。今月28日までやっているので、是非実物をご覧いただきたい。
 以前にも石田徹也のことを書いたことがあるので興味のある方は以下のURLをクリックしてみてほしい。http://d.hatena.ne.jp/toumeioj3/20061216