武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『つみきのいえ』 加藤久仁生監督・アニメーション 平田研也脚本 近藤研二音楽


 短編アニメ映画、「つみきのいえ」を見た。僅か10分前後の短い時間枠のなかに、気の遠くなるような手作業を累積し物語の緻密な演出を詰め込んだ表現世界は、長編小説に対して短編小説があるように、<短編アニメーション映画>という確立された表現ジャンルなのだろう。以前に「岸辺のふたり」について触れたが、あれもなかなか良かった。この「つみきのいえ」は僅か12分足らずと短いが、私は見ていて引き込まれ、様々な感慨を誘発され、繰り返し3回も見てしまった。ミステリー作品ではないので、思い切って画像の流れにまで踏み込んでその印象を辿ってみよう。
(1)主人公は背中の丸くなった孤独なお爺さん、日々、増水を続け、水嵩が増し続ける不思議な水の世界。水面からぽつりと顔を出した一軒の積み木のような家が舞台である。周囲には水面下に沈んでしまった家があり、お爺さんは、古びた家族の写真を眺めながら、床の穴の蓋を開け、家の中で魚釣りをして、水面上の<現在>を淡々と暮らしている。
 水面は過ぎ去って二度と戻らない時間の経過の暗喩だろうか。水面下に沈んで住む人のいなくなった家々は、生きるのを止めた死の世界の比喩だろうか、それとも過ぎて帰らぬ過去だろうか。見る者の判断に多くをゆだねるような説明抜きのイメージの提示の仕方がなかなか上手い。あるいは地球温暖化を警告するメッセージだったりして(まさか)。
(2)ある朝目覚めると、さらに水嵩が増して家の中が水浸し、お爺さんは心得たとばかり、現在の家の上にさらに家を積み上げる仕事にかかる。どこからか煉瓦を取り寄せ、屋根の上に壁を作り、部屋を作り、完成した上の家に、家具と記念の品々を運び上げ上の階に住まいを引っ越す。これが老後の日々の比喩だとしたら、凄い発想だ。私はシジフォスの神話の不条理な徒労のことを思い浮かべた。年寄りが今を生きようとすることは不条理にみえてしまうのだろうか。
 移動の折に落としたパイプが、水に沈んだ部屋の穴からさらに下の階へ沈んでしまう。パイプのコレクションをどんなに捜しても、かわりの気に入ったパイプは見つからない。そこで、お爺さんは、潜水服を取り寄せて、沈んだパイプを探しに水に潜ることにする。ここからこのアニメの本当の物語りが始まる。
(3)下の階で落としたパイプを見つけて手に取ると、プレゼントしてくれた亡き妻の記憶が蘇る。
 さらに下の階へと潜ってゆくと、沈んだままの妻のベッドを見つけ、妻を看取った介護の記憶が蘇る。
 さらに下の階へと潜ってゆくと、大きなソファーを見つけ、妻と子の4人家族だった頃の、家中がにぎやかだった頃の記憶が蘇る。
 さらに下の階へ潜ってゆくと、大きくなった娘が結婚相手を連れて親に会いに来た日の記憶が蘇る。
 さらに下へ潜ってゆくと、都会へ出かけて行く娘を二人で見送った別離の場面の記憶が蘇る。
 さらに下へ潜ってゆくと、幼い我が子と妻が積み木をして楽しく遊んでいる場面の記憶が蘇る。
 階を下に降りるに従って、記憶の古い層へ、たたみかけるように、イメージを積み重ねていく手法が、時の経過を上手く演出していて見事。回想するに値する記憶があると言うことは年取った者の特権だろうか、時は過ぎ去るが記憶は残る。残っている記憶を探し出して、過去を慈しむノスタルジーがかくも美しく哀しみに彩られて素晴らしいとは、ノスタルジーは年取った者の既得権とでも言いたげである。
(4)こうして、下へ下へと潜水してきたお爺さんは、遂に一番下の地上階にたどり着く。見上げると高く高く上へ上へと積み上げられた家が、遙かな水面へと続いているのが見える。地上階の外へ出ると、妻と出会い、愛を確かめ、二人で家を築き、二人でワインを酌み交わして祝福しあい、新生活をスタートさせた若い日々の記憶が蘇る。
 地上階の床で見つけた古いワイングラスを拾い上げ、お爺さんは過去から現在へ、水面の世界へ戻ってゆく。回収してきた妻のワイングラスにもワインを注ぎ、グラスを合わせて一人乾杯をするお爺さんのあるがままの<現在>。この短編アニメはそこで終わる。唐突に終わりが来たような感じもするし、終わるべくして終わったような気もする余韻の残る素晴らしい幕切れと言っていい。
 いくつもの内外の映画賞を獲得したらしいが、多くの人が賞賛するのも肯ける。人生を瞬間としてではなく、長い時間の幅でとらえてみたい方には、是非お勧めしたい。短編アニメだからこそ象徴的な手法でとらえ得た人生劇場の一幕である。淀みなく流れて去ってしまう日常のどこかで立ち止まり、来し方を振り返り、一瞬の感慨にとらわれるのも悪くはない。