武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『人妻椿(愛欲篇)(解決篇)』小島政二郎著 (マルエ洋行出版部1947/3/1)(清泉社1947/12/1)


ネットで検索すると「人妻椿」については、女性誌主婦の友」の項目に「小島政二郎『人妻椿』1935/3-37/4連載、これにより発行部数10万部を取り戻した」という記述がある。著者41歳から43歳の作品、この連載が好評で雑誌の発行部数が飛躍的に伸びたことが伝説的に伝えられている。しかしながら、何故か著者はこの作品のことを恥じている様子があり、小島政二郎全集からは省かれているのが不思議である。
単行本の発行について調べると、Wikipediaの<小島政二郎>の項目に「人妻椿 新潮社、1942」とあるだけ、古書検索しても分からなかった。念のため国会図書館その他複数の図書検索で調べてみると、以下の5件がヒットした。

1.人妻椿/小島政二郎著(新潮社1937/6)=多分これが本当の初版、2.26事件翌年の発行。
2.人妻椿/小島政二郎著(マルエ洋行出版部1947/3)=これは戦後間もない混乱期の再版、前後編の2分冊。手元にあるのはこれ。
3.小島政二郎集(日比谷文芸選集)に収録(日比谷出版社1949)
4.人妻椿/小島政二郎著(主婦の友社1971)=単行本としては最後のもの。
5.大衆文学大系20に収録(講談社1972)=大衆文学全集に収録、これ以降活字になっていない、最後の出版。


今回、私が入手した2分冊の単行本は、造本は雑だが岩田専太郎が装幀、清水三重三が挿絵を描いているなかなか味わい深い古書だった。今ではすっかり忘れられた作品のようだが、なかなか手に汗握る目まぐるしい展開のメロドラマ、決して古びていない。気付いたことを列挙してみたい。
①題名からも分かるようにこの作品の主題は、主人公<嘉子>が翻弄される運命、忍び寄り襲いかかる好色な男達や悪意ある女達から、如何にして二人の子どもと我が身と<貞操>と守り抜くか、この一点が本作品のメインテーマである。
②地の文で色気のある美人の人妻として描写されることからも分かるように、主人公嘉子を描き出す視線は、明らかに好色な男性による扇情的な視線である。嘉子を描写する視線が扇情的になると共に、その視線に導かれるようにして女主人公に危機が訪れる。主人公嘉子が主体的に状況を支配して行動することはほとんどない。主体的に行動できるために必要な自立の条件をほとんど持っていないと言う設定なのである。持っているのは類い希な美貌と幼気な二人の子どもだけ、財産も職業につながる技能も、自らを守る護身術すら身につけていないという弱さ、この希に見る弱さこそがこの主人公の本質と言えば分かってもらえようか。まさにメロドラマの王道をゆく作品に出来上がっている。このメロドラマ性は鑑賞に値する。
③それにしてもこの主人公の描き方に反映している女性認識には、やはり時代を感じざるを得ない。子どもに対して良き母であり、夫に対して貞操堅固な良き妻であることが、自らを支えるモラルの柱となっている女性像は、何と言おうと家父長制的な時代のモラルに呪縛された人間像と言うしかないだろう。あえて言うなら、主人公に襲いかかる幾多の苦難は、主人公自らが招き寄せていると言えないことはないのである。このような人物設定は、やはりいくら何でも今から見れば古いと言わざるを得ない。フェミニズム以前と以降では、物語においても女性観が大きく転換したことがよく分かる。
④ストーリー展開は、まるで劇画の世界、主人公が遭遇する苦境の連続攻撃は、息つく暇もないほど。かつてこの国には、こういう過酷な運命に翻弄されるうら若き女性の悲運をエンターテイメントとして享受する大衆娯楽の底流があったと言うことを思い出した。素直に主人公に感情移入してしてしまうと、後はただ荒れ狂う物語に翻弄されるしかないだろう。女性月刊誌主婦の友に連載されて、発行部数を飛躍的に伸ばしたという伝説は分かる気がする。通常では考えられないほどの不幸の連続なので、現実感にはやや乏しい。主人公も周辺人物も類型的で、文学的かと問われれば、頸を振らざるを得ないが、娯楽に徹した作品としてみればなかなかの力作となっている。
⑤次から次へと悲運に見舞われるストーリー展開は、果たして古いと言えるのか、娯楽作品としてみると気になる。ハリウッドの人気シリーズ映画、インディージョンズものだって、次から次へと危機が連続する。はらはらドキドキの連続においては引けをとらないのではないか。小島政二郎は全集への収録を拒むほどに何故この作品を低くしか評価しなかったのだろうか。この手の大衆娯楽作品には、いつか再評価され光が当てられる機会はあるのだろうか。ちなみに、きわどい場面はあるが今風な濡れ場(笑)は勿論1回もない、ヒロインは何故か最後まで危機を回避できてしまうのである(これってネタバレかな)。
⑥今回は、たまたまネットを介して北海道の古書店で偶然にみつけた2冊だったが、全国の図書館でも同じ版のものは見つからなかった。手に取ると戦後間もなくの物不足の頃らしく、紙質が悪く止めてあるホッチキスは錆びて脆くなっており、簡単に補修してからでなければ読めなかった。すべての漢字にルビが振ってあり、ページを捲ってゆくと昔へタイムスリップする感じがあって楽しかった。当時の電気配線には、<昼間線>というのがあって、夜間しか通電しない地域があったことを知り吃驚した。古い本には古い時代の生活が反映しており、所々に懐かしさを通り越して生活史的に目を引く部分があり興味深い読書となった。
興味のある方は、大きな図書館で探すと見つかる可能性がありますので、是非手にとって頂きたい。古き良き時代のエンターテイメントがどんなものだったか感触が掴めますよ。