武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「食卓一期一会」長田弘著(晶文社)87年9月初版発行

toumeioj32005-07-01

 食を通して人生をこれほど豊かに料理した詩集は、空前絶後、他に類をみない、しかもこれは稀に見る楽しさあふれる人生論集、読む人の心の飢餓を満たしてくれる文句なしの傑作
 卓越した表現技術をもつ作家が、食について語ったものを読むのは楽しい。開高健池波正太郎壇一雄などなど、数えだすときりがないほど。どうも美味しい食べ物は、書き手に表現技術の最良の部分を駆使することを強いてくるような気がする。傑作と呼びたいものが多い。西欧絵画の静物画や宗教画の一角を食材が占めており、そこでも画家は自己の表現技術の粋を凝らして、旨そうに筆を動かしている気配がある。食は表現者を深いところを刺激するのかもしれない。
 前置きはこれぐらい、この詩集も素晴らしい傑作である。作者の若い頃の詩集を読んだ記憶では、表現意識が文字の上にちらちらして目障りな感じを受けたことを思い出した。それ以来熱心な読者ではなかったが、今回、「食卓一期一会」を一読、印象がガラリと変わった。言葉に無理がなく自然な感じが出てきて、するりとこちらの気持ちに寄り添うようになった。見違えるような進化を遂げている。
 内容にゆこう。この詩集は4つのまとまりで構成されている。1章にあたる「台所の人々」には14編、「言葉のダシのとりかた」「包丁のつかいかた」などの題名から分かるように、料理書で言うと入門的な基礎的な表題のものが集められている。レシピや料理書のような記述を形の上で真似ながら、内容は人生の機微に踏み込んでいく。食べ物を語ることで、実に的確に心を語り伝えてくる。言葉がわざとらしい象徴のそぶりを取らなくても、食イコール生きることなんだなあ、と言うことがダイレクトに伝わってくる。分かりやすくて軽くない、楽しくて軽薄に流れない、大人も満足できる味付けと入ったら言いか。
 2章「お茶の時間」には19編、レシピを借りた表現は一層軽やかになり自在に走り出す感じ。ささやかな人生の一瞬、ホッとしているけれど意味深い時間があるように、作者はこうゆう書き方でなければ定着できないようなものを見事に掬い取って詩の形にして見せてくれる。言葉の名料理人が存分に腕を振るった美味しい作品群。じっくりと読んだり、さらりと読んだり、繰り返しその美味を堪能したい。
 3章「食卓の物語」19編、レシピの範囲はぐんと広がり外国由来の料理が名を連ねる。料理で言えば、レパートリーが広がり、お客を招待して、腕前をご披露する感じと言えばいいか。少し下調べをしているのか、対象の幅が広がりコクが出てきた感じ。作品としても重みが増し、一層味わい深いなる。
 4章「食事の場面」14編、古典的な物語にまでレパートリーを広げ、食にかかわるシーンを軸に、物語の主人公の生き方を借りて、人生を語る仕掛け。言葉の自在さは、何を取り上げてもとどまる事を知らないかのよう、飛ぶ鳥を落とす勢い。美味しさは最後まで持続していて、たっぷり堪能できる。
 これら全部で66編、195ページ、1冊の単行詩集としてはかなり厚い、しかも美味しい。食べることが好きな人、言葉の美食家を自認する人、是非読んでみて、空腹の人が読むとなおさら腹がすくかもしれないのでご注意。