武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『わたしの沖縄食紀行』 平松洋子著 (発行集英社be文庫2005/10/25)


 沖縄を旅していて、なかなか沖縄の食事に出会えないという、もどかしい思いをなさったことはないだろうか。同じようなことが、北海道を旅していても、イメージしていた北海道らしさに遭遇できないという失望感を抱くことが多くなった。観光客をターゲットにした観光産業の思惑と、旅行者の願望とのすれ違いとでも言おうか。食事の印象が、旅の質感に占める割合は少なくないので、この種のニアミスが多くなると、旅そのものへの期待もいつのまにかしぼんでしまうのではと気になっている。
 そんな時に、私が一番知りたいと思ったことは、現地の人は、日頃どんなものを食べているのだろうか、と言う疑問だった。ホテルや旅館のご馳走のような食事をしているはずがなく、もっと素朴で食べ飽きることのない、安くて美味いものを食べているのだろうと想像する。北陸の地方都市で育った私の生家がそうだった。子どもの頃の友達の家々の食事もなかなか美味いものを工夫しながら食べていた。旅先での<家庭料理>や<郷土料理>の看板には、観光客をあてにした胡散臭さを感じてしまい、心から美味しいと思ったことは数えるほどしかないのが不思議でならない。
 そんな日頃からの思いを少しでも解消してくれることを期待して、本書を手にした。文章と写真を見る限り、今度、沖縄に行った時には、荷物に入れていって何店か訪ねてみようかなという気になった。その意味では当たりだったので、内容を紹介したい。
 食べ物には、それを作る人の人柄や物の考え方、大げさなことを言えばその人の食の思想性が如実に反映すると思う。だから、食べ物の味を語るのに、それを作っている人のことを取材するというのは正しい。この著者は、ハッキリ言って味を表現するのは上手ではない。いや、むしろ表現技術を駆使して美味を表現することの限界を踏まえた上での、食のルポなのかもしれない。
 従ってこの著者は、何よりも作っている人の思いを掘り下げようとする。二章の見出しが「おいしさのつくり手を訪ねて」となっているのは、本書の意図を明確に示している。この章だけでなく、本書のほぼ全体が、この方向でまとめられていると言っていい。黙って食べていても本当の味は分からない。味は目で見て耳で聞いて、言葉をかみしめてこそ分かってくる。
 一章で、まず市場を紹介するのも納得できる。食材は、自分で作ったり採ったりする以外は、市場を経由して買ってくるほかはないのは、どこでも同じ。その地方の一般的な食材は、市場に行けばよく分かる。後は、それらの食材を、どのようにして調理しているかということになるが、この点は実際に食べてみることと、作り手の思いを聞いて来るしかない。この本は、以上の意味で、地方の食の探訪の基本線を外していない。
 目次を見ると分かるが、作り手を軸にした取材は、三章で伝統的な味、四章で旧家の正月料理、五章で家庭の味へと、着実に話題を広げて楽しませてくれる。五章の家庭の味では、レシピも簡単に紹介されていて、作ってみようかなと言う人にも便利なようになっている。
 全体に写真も美しく、淀みのないすっきりした文章で、爽やかの食のルポに仕上がった。沖縄旅行のガイドブックに飽き足らなくなった人にお勧めしたい。