武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「ヤマザキ、天皇を撃て!」皇居パチンコ事件陳述書 奥崎謙三著(三一書房)ニューギニア戦線で奇跡的に生き残った元日本軍兵士、6月16日死去の報道に触発されて

toumeioj32005-06-30

 戦後60年、これまで何回「戦後は終わった」と言う声を聞いたことか。「これで本当に戦後が終わった」という言い方もある。私にとってもある種の感慨をもって戦後は終わったと感じる出来事もあった。すでに終わっているんだなあ、と感じてぞっとすることもある。父を弔った時も母を弔った時も、戦争の時代を生きた人を弔い戦後が終わったとしみじみ感じさせられたことだった。
 今回の奥崎謙三さん逝去の報道で、また、「戦後が終わったんだなあ」という感慨をもった。私が知る限りでは、庶民として元日本軍の兵士として、最も苛烈に戦後を生きている、とても真似の出来ない凄い人という印象の人だった。戦後を生きた日本人の一つの極点に立ち続けてきた人。
 「ヤマザキ天皇を撃て!」によれば、彼は、1920年に生まれた。この国に1920年に生まれたということは、それだけで重い十字架を背負わされたようなもの。国民皆兵の徴兵制度、成長とともに始まる15年戦争、避けるすべもなく41年に工兵隊に入隊、独立工兵隊36連隊に所属し、ミューギニア戦線へ。
 この本にのっている裁判のための陳述書は鮮烈。陳述書の大半を占めるニューギニア戦線における日本軍の敗走の記述は半端ではない。戦後、何冊も戦場を舞台にしたフィクション、ノンフィクションが書かれたが、その凄惨なリアルさにおいて他に類を見ないほどの迫真の文章となっており、読んだ当時、強い衝撃を受けた。想像できますか、最初に1000人余りいた兵士が、たった6人しか生き残れないという悲惨な敗走をジャングルの中で延々と続けるということの凄まじさ。その悲惨な事実を、戦後になってとことん考え抜き、行動に転化してゆくところが奥崎謙三の本当に凄いところ。85歳でなくなるまで、彼は彼独特のやり方でこの国の戦後を批判し続けながら生き抜いた。
 「69年1月、皇居の一般参賀昭和天皇に向けてパチンコ玉を放ち、暴行罪に問われて服役。83年には衆院選に立候補。この際、広島県の元上官宅を訪れ、応対に出た長男に拳銃を発砲して重傷を負わせ懲役12年の判決を受けた。」さらに「元日本兵が上官らの戦争責任を追及するドキュメンタリー映画ゆきゆきて、神軍」(87年、原一男監督)の主人公」になり、天皇や旧陸軍時代の上官の戦争責任を問う過激な言動を繰り返し続けた。
 太平洋戦争に何らかの形でかかわった人にとっては、この奥崎謙三さんの生き方は、良い悪いの価値判断を越えたところで、こちらの心情を刺激し掻き毟ってくるような、たまらない存在だったのではないだろうか。戦後人間の私にとっても、とても気になる存在であり続けた。もしも向こうの世界があるとしたら、彼が真っ先にやりそうな事も、ある程度予測できるような気がする。謹んでご冥福をお祈りしたい。
 最後に、この本を読んで強いショックを受けた、「 出版にさいして」と題された終わりの文章を引用する。

 数百万人の無辜の民衆が死んだ、あの悲惨な太平洋戦争が、裕仁詔勅で始まり終ったというまぎれもない事実は、日本人の中で裕仁の戦争責任が最も重く且つ大であることを、何よりも如実に証明するものである。
 しかるに裕仁は、ヒトラーの如く追いつめられて自殺せず、ムッソリーニの如く民衆によって処刑されず、敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯儒に支えられて、今日なお特権的な生活を保障され、存在しつづけている。
 この厚顔無恥としかいいようのない裕仁とその一族の精神構造は絶対に正常なものではなく、「現人神」(あらひとがみ)であった当時の奇怪異常なそれと全く同一のものである。かかる裕仁およびその一族が、今日なお天皇、皇族、皇室として民衆の上に君臨することについて、激しい怒りと大きな疑惑を感じない者は、あの悲惨な戦争を体験しながら、結局は何も学びとらなかったものであるといわなければならない。戦争の最高責任者である裕仁にその責任を問うことなく、敗戦前と伺様に、尊敬・優遇しつづけてきた多数の日本人のこの感覚と態度は、去る昭和十六年十二月八日に無謀な戦争に突入した当時に日本人の示した狂った感覚と態度そっくりであり、そこには三十全年の歳月が経過した年輪のあとが全く見出せない。
 このようにして裕仁が、今日まで誰からも罰せられず、今日なお公黙と天皇として存在するゆえに、私は、誰よりも激しい怒りと、軽蔑の念を、裕仁と、裕仁を許している者たちに対して、抱かずにはおれないのである。
 その激しい感情を持続することによって、私は自己の精神が正気に近いことを確認することができ、人類の未来に絶望することを免れ、天皇がいる体制の中で不本意に送り迎える珍貴な日々の生活を、辛うじて今日まで克服してこられたのである。
 (途中略)
 ニューギュアの密林で、極限の状況裡にあって、飢え渇えた末に、孤独に淋しく空しく死んでいった名もなき多くの兵士たちの亡霊に向って、私は「天皇を撃て!」と、死ぬまで慟哭しつつ叫びつづけることをやめることはできない。