武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『天野忠詩集』 天野忠著 (発行思潮社現代詩文庫1986/7/1)

 明治42年に生まれ1993年に84歳で亡くなった京都の詩人、天野忠の名品を紹介したい。発行部数の少ない詩集ばかりだったのでその詩集はなかなか入手しづらい。現在でもなんとか手に入るこの「天野忠詩集」から幾つか紹介しよう。
 天野さんの詩は、言葉ではなかなか説明しにくい。珠玉のような作品を読んで貰うしかない。だが、敢えてそのセールスポイントを指摘するなら、還暦を過ぎたあたりから、表現に凄みが出てきて秀作を連発するようになった人、身の回りを鋭く観察して生まれた親しみやすい諧謔に満ちた作品に傑作が多い。老人が老人のことをみつめた文学のことを<老老介護>をもじって<老老文学>と言うなら、晩年の天野さんは、この国の詩の領域に<老老文学>の見事な収穫をもたらした。 
 何よりも実物を見ていただこう。

家庭

大きな声で
子供を叱ったので
いまは
小さな声で
犬を撫でている。


いい子だな
おまえは
いい子だよ
おまえは…。


迷惑そうに
犬は
しぶしぶ尾を振っている。

 子どもを育てたことのある親なら、これを読んで分からない人はいないはず。家の中でペットが果たしてくれている精神的な役割との鮮やかな結合、犬を撫でる人間の手の動きと、犬が振っている尾の動きとの見事な対比、小品ながら傑作と言うほかあるまい。<いい子が>二つ並んでいる意味深長さが絶妙。

小舟

若い人は物持ちだから
あたりの景色も見ずに
どんどん先に行くのもよい。
老人は貧しいから
物惜しみをしなくてはならない。
生から
死に向かって
極めてゆるやかに
自分の舟を漕ぎなさい。
あたりの景色を
じっくりと見つめながら
ゆっくり ゆっくり
漕いでおゆき、
めいめいの小さな舟を。

 人生という時間の水に浮かぶ小舟を暗喩にした、老人と若い人との対比、時間的に<貧しい>と表すほかない小舟に乗る老人にピントを絞り、老人を取り巻くわびしげな情景をくっきりと優しく残酷に描き出す手つきのなんと鮮やかなこと、僅かな言葉から浮かび上がる枯れた燻し銀の輝き。

時間

私のとなりに寝ている人は
四十年前から
ずうっと毎晩
私のとなりに寝ている。


夏は軽い夏蒲団で
冬は厚い冬蒲団で
ずうっと毎晩
私のとなりに寝ている。


あれが四十年というものか…


風呂敷のようなものが
うっすら
口をあけている。

 最後の直喩の強烈なこと、40年という歳月があるのでかろうじて容認される表現の綱渡り、天野さんの詩に出てくる夫婦愛の詩には、いまだかつて誰も表現したことのない夫婦の絆が何度も出てくる。長年連れ添った夫婦だけが到達できる枯淡の境地(笑)だろうか。老夫婦ものをもう1篇。

伴侶

いい気分で
いつもより一寸長湯をしていたら
ばあさんが覗きに来た。
―何んや?
―…いいえ、何んにも
まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい…。


フッと思い出した。
二三日前の新聞に一人暮らしの老人が
風呂場で死んでいるのが
五日後に発見されたという記事。


ふん
あれか。

 この境地に至る老夫婦は少なくないだろうが、このように鮮やかに簡潔に、老人世界を詩に定着した人は、他にいない。最後の2行の憎たらしいまでの切れ味、落語の名人の最後の<落ち>を聞かされた心地がする。この風呂場で死んでいた老人というフレーズから石原吉朗を連想すると、味わいは一層深くなるが、読み過ぎかもしれない。あとは笑って拍手する以外ないだろう。

世間ヘ

野良猫の母親が子猫に告げた。
―あの家には女の子と男の子がいる
  うまくいけば飼ってもらえる
心細げに子猫は母親のきつい眼を見た。
―さあ、お前の分別で生きてお行き
  もう世間へ出ていく頃だ…
ふりむきもせず母親は
屋根伝いに
自分の餌を求めに行ってしまった。
子猫はじっと見送っていた。
それから
小さなかぼそい懸命に甘えた声で
ニャーンと鳴きながら
おそるおそるあの家の方ヘ
世間の方へ出て行った。

 天野さんの詩には、動物を取り上げた傑作が多い。「動物園の珍しい動物」という名詩集があるほど。これは老老文学ではないけれど、老境に達した詩人のぬくもりのある視線が感じられる、可愛らしい名品。小さな孫達を見守るような慈しみに満ちた気分が感じられる。
 気に入った詩編を5篇紹介したが、天野さんの詩集には、この手の作品は随所に散りばめられている。勿論、別の傾向の作品にも傑作は数多く、全作品に目を通す価値が十二分にある大詩人なので、是非図書館などで探してみてほしい。ほとんど時代の流行とは無縁なところで、黙々と自分の表現を磨き上げてきた、明治生まれの堅い骨のある詩人です。