武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『詩集・若葉のうた―孫娘・その名は若葉(増補版)』 金子光晴著 (発行勁草書房1974/1/10)

 たくさんある金子光晴の詩集の中で、一番好きな詩集がこの「若葉のうた」、光晴自身の老いの寂寥と、産まれたばかりの幼気な孫娘への愛隣が交錯して、束の間の生の輝きが見事に掬いあげられた珠玉のような名品である。世代や個を越えて続いてゆく命の連鎖が詩句の背後から透き通って見えてくる。多くの人に是非手にとって貰いたい傑作詩集である。
 長い間倦まず弛まず言語表現の技を磨き込んできて、老齢期に差し掛かった詩人にして初めて可能になった切ない表現が随所に散りばめられていて、一遍一遍が息を呑むほどに繊細で美しい。圧倒的な技巧が巧みに角を隠され、言葉の自然な振る舞いのように装われているが、塗りこめられている言語感覚の鮮やかさは名人技と言うほかない。72歳の時に出版され10年後81歳で亡くなったので、典型的な晩年の作品だが、言葉の衰えなど微塵もない。恋する若者のような瑞々しい言葉が紡がれ、押さえ込まれたエロチシズムまでもが仄かに見え隠れして吃驚するやら呆れるやら。
 簡単に構成をたどってみよう。最初に型どおり、孫娘の誕生をつげる[序詩]「森の若葉」がおかれている。
 続いて[孫娘・十二ヵ月]と題された12篇の連作詩編がならぶ。いずれも産まれたばかりの零歳児の孫娘をうたったもの、「朝日文芸」という月刊誌に毎月連載されたものらしい。この1年間の取り組みが、光晴の詩作の弾み車に勢いを付けた。光晴の孫娘への愛情と、詩編への好評が弾みとなって、光晴はこれまで試みたことのない屈折の少ない<至上の愛>とでも呼びたくなるような新たな表現の地平を繰り広げて見せてくれる。どの言葉も類い希な輝きにきらきらしている。12ヶ月分の12篇がそれぞれに独立して鑑賞するに値するとともに、全部が連作としてまとまって1年間の季節の移り変わりを見事に表現している。この国の正月があり、春があり、この国の夏も、秋も、1回限りの零歳児に寄り添って愛しさに身もだえしている老詩人の感性を通して鮮明に愛らしく定着されている。これこそが、光晴が長い年月をかけて追求してきた詩の到達点ではないかと、言いたくなるほどの命の賛歌となっている。
 続いて[若葉の詩]と題された12篇の詩編、孫娘との出会いが生んだ<至上の愛>の詩編は、元の光晴に戻り、読み慣れたいつもの屈折した光晴調が戻ってくる。批評が加わり苦いアイロニーが溢れて、孫娘への溢れる思いから距離ができる。だが、底辺を流れる孫娘の求心力と、自らの老齢化と鋭い批評精神が交錯して、<温かさを含んだ文明批評>と呼びたくなる詩情が絡め取られている。これらの詩編もこれまでの光晴にはなかった境地と言えよう。
 そして長詩[はるばる未来からやってきたもの]孫娘の誕生から得たポエジーの総括、生まれ来る新しい命と、この世を去る者との間に広がる、矛盾に満ちた現実、力作である。
 続く[愛情によせて]は、全部が必ずしも孫娘をうたった詩ばかりではない、ここに納めると落ち着きがいいとの判断だろうが、ささやかな気分転換、間奏曲とでも評すべきか。燻し銀ののような名品がそろっている。
 最後におかれた[若葉と夏芽]3篇の詩が納められているが、小学生に成長した若葉と、新たに誕生した次女の夏芽との、二人の孫たちを巡る詩編、それらの中で長編詩「運動会」が傑作、私はこの詩を読んでから、運動会を見る目が変わった。それほどに二人の孫娘の運動会をみつめる老詩人の目は鋭く温かく深い。長いが全編を引用しよう。この詩人の晩年の白眉、是非全編に目を通していただきたい。
 なお、この詩集だけは最初の初版はおすすめしない。[若葉と夏芽]の3篇がはいっていないからだ。増補版で補充されてこの詩集は一層の充実をみた。「運動会」がないというだけで価値は半減する。入手するなら是非増補版にしてもらいたい。

 運動会


 若葉のうたを書いてから
もう、随分な歳月がながれた。


 そのあいだに鸛(こうのとり)が、
もうひとりあかちゃんを運んできた。


 晩春の頃にうまれたので
みんなで、夏芽と名をつけた。


 椎(しい)の実なりの小さな夏芽は、
はっきりした瞳で、問いつづけた。


 ここはどこなの。あれはなに、
いったい わたしは誰なのと。


 その夏芽が、幼椎園二年生。
姉の若葉は、小学校三年生。


 ことしも秋がきて、どこの小路も
木犀の薫りがたちこめて、尼僧院の


 大木の欅(けやき)並木が、こいそがしく、
黄に、朱(あか)に枯葉をふるい落す頃、


 そこの広庭、ここのあき地で、
たのしい子供の運勤会が開催(もよお)される。


 幼い夏芽の運動会は、十月四日。
そのあと三日置いて若葉の運勣会。


 ふたりは、それぞれ招待状を作って
ねている爺の枕元にそっと置いてった。


 招待状はどっちも念入にふち取りの
花や、苺や、てんとう虫や、片方の女靴、


 王子さまの乗る車などが、色鉛筆で、
飾ったなかに、平仮名で書いてある。


 お爺ちゃま。若葉の運動会にきて頂戴(ちょうだい)。
夏芽の走るのをみてください。


 これではどちらも行かずばなるまい。
幸ひ、夏芽の日は好天気だったが、


 若葉のときは雨で日延べになって、
二日おくれて、やっとその日が来た。


 校長先生や、PTA会長の隣りの
敬老席に、僕は腰をおろして、


 朝の九時から、午后三時まで
子供達の走りくらや綱曳を眺めた。


 塊(かたまり)にとけた子供たちのなかから
若葉ひとりをさがし出すのは大変だ。


 望遠鏡にもなかなかかからない。
ひょっくり近くにいる若葉に、片目瞑(つぶ)ると、


 蛸の口をして、若葉は、応答する。
わが家の誰よりも酒落の分る奴だが


 (洒落などわからぬ男に嫁(かたづ)いたら、
戯(おど)け者といって窘(たしな)められるだらう。


 勝気で、口惜しがりの妹の夏芽は、
とりわけ気苦労な生涯を送るのではないか)


 わが家の小さな姉と妹とは、
よその多勢のなかでみていると、


 他を追いぬいて走る気力に乏しく、
迷惑顔でついて走っているだけだ。


 子供の頃の僕も、おなしだった。
おばあちゃまも、パパもママもそうらしい。


 生き変り飛びつづけてもわがRaceには
ゆくあてもなければ、止り木もない。


 万国旗が風にはためいても、風船が割れ、
つづけさまに花火が空にあがっても、


 子供たちよ、胸をおどらせるな。
歓声をあげるな。僅かな歳月のあいだに、


 むかしなじみの旗が消えて、
みたこともない国旗がたくさん増えた。


 そのたびに、無辜(むこ)の血がながされ、
血泡(あぶら)で、裏町の溝はのどを鳴らした。


 旗のもとに集まる人々の特権を護り、
その優位と、限りない欲望に曳づられ、


 このいたいけな子供たちにも、
悲惨がそのまま引き継がれて、


 灰をかむったしらじらした風景と、
廃墟の思想をふかく身に泌みこませる。


 若葉よ。夏芽よ。お爺ちやま達が
りっかすの人生をいま迄生延びたのは、


 君たちや、お友達みんなの
危い曲り角を教えてあげたいからだ。


 だが、塩辛い涙と洟水をすすって、
目先がうるんで、君たちの姿までも、


 みえなくなる日が遠くはないのを
そのときが来たらみんな空しいのを


 そんな悲しみを越えてまだ人生があり
路がはてしなく先へつづいているのを、


 さて、どんな顔で見送ればいいのだらう。
小さな姉妹たちの幸福(しあわせ)ばかりの遙曳(ゆれなびき)を


 まだなにも画いてない答案用紙を、
願望(ねがい)通りと信じていればそれでいいのか。


 だが、姉妹よ。君にとって、幸福とは、
ゆたかな暮し、こころ平安などではなく、


 みまもられる眼のあたたかさや
炎のやうな燃えさかるものでもなく、


 苦痛でしか現はすすべのないもの
死と断念しか受留められないもの


 かもしれない! そして、僕は、
君たちに、遥かに届かなくなり


 君たちはまた、できるだけはやく、
僕を忘れてゆくのにまちがいない。


 まだ無毛(かわらけ)の君たちの人生には、
わづかな痕跡しか記されていないが、


 リレー競争やフォークダソスを踊る
君たちの赤組と白組が集っては散る


 ひとりづつが懸命のエネルギーが、
一団の熱気となって鬱々(うつうつ)とひろがり


 その歓声のなかにはすでに、
今日の否定が、底鳴(なり)してゐる。


 もう 番組は終りにちかく、
招待者たちは三人、五人と立上る。


 陽のしづむ空だけが明るく、
夕ぐれ近い寂寥がそこらに這う。


 朝顔の枯れた蔓が、種をつけて、
からみついている金網の方ヘ


 自転車に圧されてよろめく老女を
ころばないやうに支えてやると、


 老女は歯のない空洞な口をひらいて
『お爺さんは 運勤会がお好だね。


 このあいだも 幼稚園で
お姿をおみうけしましたよ』と言ふ。

 『ええ。毎日でもでかけますよ。
でも、膝に水がたまって痛むので


来年はゆかれないかも知れません』
そういうと僕はしっかり胸を反らせ


 それ以上、かかりあひたくないので、
しゃんしゃんと歩いてみせながら


 みるみる遠ざかってから振返ると、
みたくもない老婆の周りにぶら下り、


 多勢の子供たちがとんだり跳(は)ねたり

 この言葉の自在な流れと滞り溢れだす不思議な生命のリズム、素晴らしいの一語につきる。光晴の数多い詩編の中でも、10指に数えたい傑作である。エゴイズムで曇りがちな家族を主題にして、ここまで見事に老境と愛情をともに歌い上げた例は他にない。読みながら胸の奥が熱くなってしばし息を細くして渦巻く思いをもてあました。最後に、詩集の目次も引用しておこう。

[序詩]
森の若葉
[孫娘・十二ヵ月]
元旦
頬っぺた

さくらふぶき
問答
新聞
若葉よ来年は海へゆこう
若葉の旅
若葉の夢
若葉の十月
十一月の若葉
十二月の若葉
[若葉の詩]
しあはせの弁
まんきい
ぶらんこ
あかんぼの譜
無題
『若葉』はわらふ

ANGEへのLOUANGE

おばあちやゃん
花びら
十人の『若葉』
[長詩・はるばる未来からやってきたもの]
[愛情によせて]
一対
別離
しあはせについて
ちいちゃい王サマ
[若葉と夏芽]
長詩・運動会


跋(増補版によせて)/詩集のあとがき

 最後の締めくくりとして付いている「詩集のあとがき」の添えられた、おばあちゃん三千代さんの日記が凄い。僅か二日分しか引用されていないが、光晴のホットな老境ともひと味違うクールな味わいに背筋がひやりとする。最後まで、隈無く読む値打ちがある詩集である。孫が産まれたら、この詩集をお爺さんやお婆さんにお祝いとして是非贈りたい。残された日々を輝かしく生きるための言葉の杖となってくれる気がします。