武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『詩集「三人」』金子光晴/森三千代/森乾/著 (発行講談社)

 詩人金子光晴の未刊の私家版詩集が、古書市で見つかったというニュースを聞いて、出版されないかと期待していが、今年になって本になった。戦争中の金子光晴の家族愛については、子どもを兵役から守るための行動や、発表のあてもなく密かに書きためていた疎開詩篇など、有名なエピソードが多いが、新たな発見と聞いて、さっそく入手した。
 金子光晴に詩をめぐっては、社会や文明をテーマにした詩篇よりも親しみやすい肉親や家族をうたった詩篇を軽く見る人もいるようだが、むしろ詩人の柔らかい傷つきやすい心の内奥に触れる詩篇として、もっと重要視されていいと思ってきた。愛くるしい孫娘を手放しで歌い上げた<若葉の唄>など、凡百の詩人になしうる仕事ではなかった。愛する家族をうたって鑑賞に堪える表現の水準を維持することの至難はすこしでも考えるとすぐ分かるはず。
 あとがきを読むと、この詩集の3人の著者は3人ともすでに鬼籍の人、時の推移は残酷なものだが、富士のふもとで息を殺して疎開生活を送っていた金子一家の温かくも心細い生きようが蘇り、襟を正すようにして読んだ。光晴のものの何篇かは語句が少し違うが、既刊の詩集で読んだことのあるものもあったが、こんな家族もいたのかという驚くべきドキュメントとして、胸を打つ。
 この詩集の構成は、3部構成になっている。発表することを考えない家族3人のためだけに、3人で作ったこんな詩集がでてきたということ自体、凄いこと。詩集の目次は次の通り。

詩集「三人」
詩集「続三人」
ボコに与へる詩、その他のふるい詩篇

 柔軟で輝きのある光晴の詩篇が中心だが、チャコとボコの詩篇を混ぜて、どのグループも家族の詩集になっている。母親チャコが息子のボコをうたう詩篇、光晴がチャコやボコをうたう詩篇、若い息子が辛い戦時下で押し殺された若者の夢をうたう詩篇。この稀有な家族詩篇が発見され、日の目をみて本当によかったという気がした。詩を読む以上に、家族のあり方や、戦争について考える資料として、多くの人が手に取ることを期待したい。これこそが素晴らしい究極の愛の詩集である。
 この詩集の最後にある光晴が妻三千代をうたった燻し銀のような詩を引用しておこう。長年連れ添った妻をこのようにうたった詩は他に見たことがない。戦争の圧力の中で開花した奇跡の表現。<どくろ杯>などを通して光晴の伝記的事実を知る者にとっては、この詩は何とも微笑ましくて辛くそして限りなく美しい。

 チャコの由来


チャコはどこから来た。
天から来た。
袴をはいて、桜の徽章をつけて、
少年のような豊頬をして、
ひらりと舞下りてきた。


琥珀のパラソルももって
靴もはいていた。
それから僕の肩に止まり、
うでにうつった。
だが、もっとよそにとんでゆくため。
しばらくそこで景色を眺めるため。


ぼくはその足に紐をむすび、
一方のはしを僕の心臓につないだ。
そこでチャコがとび立とうとするたび、
僕の心は痛んだ、ひっつった。


チャコはそれをみて驚き、
羽搏いては戻ってきた。
僕はいった。「ここにおいで。
ここにだって自由はあるよ。」


ああ。それから20年。
チャコはもう僕の肩を
すみかとしてなれてしまった。
「もうどこへいっても、
新しい天地を見出すのはおそい。」


それに、チャコには、
ボコがいるのだから。
ボコからはなれることは
生きてゆく意味をなさないから。


だから僕は時々かいないことをおもう。
チャコは花びらのように
もっと勝手にただよわせたら、
のみすぎる位青春をやったらと。


チャコの眼から
青春の憧がなくなるのは
いちばんさびしい。
墓までもってゆく青春。


あんなにおだやかなチャコの眼には
ボコがうつっているだけだ。
チャコは、このうへないという。
だが、僕は何だか淋しい。