武蔵野日和下駄

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 笹原常与の詩論における「見る自己の確立」

 ネットを検索していてたまたま笹原さんの筆名を、古い教育雑誌の目次の中から見つけ、珍しい冊子を入手した。角川書店発行の「国語科通信NO.30 特集現代詩へのアプローチ」という48ページ足らずの小冊子、昭和50年12月1日発行、西暦になおすと1975年。30年以上前、高校の現代国語の先生方を対象とした教育雑誌

 笹原さんの作品は、冒頭を飾る7ページ『現代詩の一面−「見る自己」の確立』と題するなかなかの力作。高橋新吉の「るす」、萩原朔太郎の「自然の背後に隠れて居る」、金子光春の「くらげの唄」と「赤身の詩」、田村隆一の「帰途」など5編の詩篇を鑑賞する形をとりながら、笹原さんの考える現代詩の基本的性格=「見る自己の確立」を論じ、現代詩の批評性に及ぶという内容。記述に沿って、その論旨をたどってみよう。
 まず、鑑賞作品の引用から。

   るす


 留守と言へ
 ここには誰も居らぬと言へ
 五億年経つたら帰つて来る

 この有名な高橋新吉の詩を引用して、笹原さんは、次の様な素晴らしい鑑賞文を記述している。たった3行の短詩から、これだけの読みを引き出すのは、容易なことではない。まるで、笹原さんの世界に引き寄せて再構築された、新たな散文詩のよう。

「留守」という表現がもたらすイメージは、私に素ガラスに囲まれた留守の家屋のイメージを喚起し、閉ざされた窓ガラスには外界の景物や空が反映しており、しかし内部はひっそりと静まりかえり、時たま尋ねてくる者も不在に気づいてやがて帰って行き、そのためますます留守を深めた内部は、奥の方に、「五億年」経たなければ帰って末られないような遠くはてしない距離と世界をひろげて静まりかえっている。そうした深いイメージをこの詩は私にもたらす。
 詩人高橋新古は、日常世界から遠く離れ、「五億年」経たなければ帰って来られないようなはるかな地点に立って、そこから留守になった自己をも、留守にした自己をも見ている。同時に彼はまたこの詩を享受する私たちの存在をも同じ眼で見ている。

 このような深みのある鑑賞を通して、この詩から読み取れる詩人の視座を基点に、「見る自己の確立」とは何かを次のように論じる。その精妙な論理を要約することは不可能なので、要所をそのまま引用する。ここまでくると、文章は現代詩の鑑賞の領域を抜け出し、実存の本質にまで突き進んでいるという気がする。笹原さんの詩から受ける哲学的な印象がダブってきてならない。

 私がここにこの詩を引用したのは(略)詩人それぞれが持つ個性のちがい、詩に対する考え方のちがい、そこから生ずる詩の傾向・流派の相違にかかわりなく、それが詩である以上詩としての根本において現代詩全般が持っている一つの基本的性格を、この作品が明確に備えていると思うからである。
 それではその基本的性格は何かといえば、それは見る自己を日常の自己から厳格にわかち、そうした「見者」としての自己の眼を通して、日常の自己をもその他いっさいの存在をも見ようとする態度である。この見る自己の確立、あるいは確立への願望は、しかし、自己でもなくそうかといって他者でもないといった、いわば無色透明な中間者的存在としての自己の確立を意味するものではないし、また、一度確立されたらそのまま変わらずに永続するといったような性質のものでもそれはない。むしろ、詩人が見る自己を日常の自己から厳格にわかとうと志向すればするほど、そこに働く彼の意志は、いったん引き離し得たかに見えた見る自己から更にわかつところの、もう一つの見る自己を生むことになる。こうして見る自己は果てしなく拡大再生産されていくわけである。詩の営みは、詮ずるところ、こうした見る自己の拡大再生産行為を通じて物の本質に迫ろうとする営みであり、物の本質に迫ろうとする営みを通じて、迫ろうとする自己自身をも批評する、という働きを持つ行為である。つまり、見る者と見られるものとの関係は絶えざる交感関係にあり、そこには有機的、相互的なかかわりあいがある。言いかえれば、見る自己(見る主体)は、見られる自己(見られる存在)に絶えず見られており、そうした不安の中で常にゆれている。

 原理的に現代詩をとらえようとするこの姿勢は、75年当時としてそれほど珍しくはないかもしれないが、鑑賞の鋭さと深さ、論理展開の息の長さなど、今から見ても傑出した水準にあると言わざるを得ない。当時、2冊の優れた詩集を世に問い、自らの詩表現を確立し、さらなる詩表現の地平に向かおうとしていた詩人の、確固とした姿をとりはじめた詩論の枠組みが、くっきりと浮かび上がってくる。笹原さんの詩に向かう姿勢に、こう言う形で接触できるのは、何とも嬉しい。
 このように「現代詩人に共通する根本のもの」として「見る自己を厳格に確立し、ないしは確立しようと志向し、そうした「見者」としての自己によって、自己をも他の一切の存在をも見ようとする姿勢」を論じた後、萩原朔太郎の作品の鑑賞を通して近代詩人が「どのように徹底して物を見たか、そこから何が見えてきたか」に話は進む。

   自然の背後に隠れて居る


 僕等が藪のかげを通つたとき
 まつくらの地面におよいでゐる
 およおよとする象像をみた
 僕等は月の影をみたのだ。
 僕等が草叢をすぎたとき
 さびしい葉ずれの隙間から鳴る
 そわそわといふ小笛をきいた。
 僕等は風の声をみたのだ。


 僕等はたよりない子供だから
 僕等のあはれな感触では
 わづかな現はれた物しか見えはしない。
 僕等は遙かの丘の向うで
 ひろびろとした自然に住んでる
 かくれた万象の密語をきき
 見えない生き物の動作をかんじた。


 僕等は電光の森かげから
 夕闇のくる地平の方から
 烟の淡じろい影のやうで
 しだいにちかづく巨像をおぼえた
 なにかの妖しい相貌に見える
 物の迫れる恐れをかんじた。


 おとなの知らない希有の言葉で
 自然は僕等をおびやかした
 僕等は葦のやうにふるへながら
 さびしい曠野に泣きさけんだ。
 「お母ああさん! お母ああさん!」

 この有名な朔太郎の詩篇に対する笹原さんの鑑賞も素晴らしい。詳細にフレーズに即した解釈した後、次のようなまとめの文章で、この詩篇の鑑賞を締めくくる。

 常日ごろ見慣れておりそれ故に安心して接し得ていたものとは全く異なる「象徴」を、「自然」(あるいは物)の背後に発見した時に、私たちが感じる驚きや其様な不安、おびえといったものが主調低音となってこの作品には鳴りわたっている。この作品がたたえているそうした不安やおびえは、たまたまここに表現されてあるあれこれのものが陰影で暗く、不気味な性質のものであることによってもたらされたのではない。それは存在の本質が私たちに与える不安なのだ。存在の本質は不気味なものであるにちがいない。人間の恣意を超え、私たちの気ままな感情を拒否し、私たちの存在を無視し、ある場合には私たちに対峙して存在しつづけるのだから。
 朔太郎は、詩人としての優れた直観力と鋭敏な感性によって、存在の本質がもたらすそうした不安を直覚し、それを詩として形象化した。

 このように「見る自己の確立」について作品鑑賞に即して理解を深め、次にそこから導かれる「批評性」に論点が移行、金子光春の「くらげの唄」の鑑賞を通して深められる。近代史を語るときによくつかわれる「象徴」という概念の本当の意味は、物事の背後に隠れている本質を指し示すということを印象的に教えてくれるこのあたりの文章の説得力は素晴らしい。笹原さんの文章の論旨は、このあたりから物事の本質を見抜くことから、批評精神にと向きを転じる。あるいは、本質が含みもつ批評性と言ったらいいか。

   くらげの唄


 ゆられ、ゆられ
 もまれもまれて
 そのうちに、僕は
 こんなに透きとほつてきた。


 だが、ゆられるのは、らくなことではないよ。


 外からも透いてみえるだろ。ほら。
 僕の消化器のなかには
 毛の禿びた歯刷子が一本、
 それに、黄ろい水が少量。


 心なんてきたならしいものは
 あるもんかい。いまごろまで。
 はらわたもろとも
 波がさらつていつた。


 僕? 僕とはね、
 からつぽのことなのさ。
 からつぽが波にゆられ、
 また、波にゆりかへされ。


 しをれたのかとおもふと、
 ふぢむらさきにひらき、
 夜は、夜で
 ランプをともし。


 いや、ゆられてゐるのは、ほんたうは
 からだを失くしたこころだけなんだ。
 こころをつつんでゐた
 うすいオブラートなのだ。


 いやいや、こんなにからつぽになるまで
 ゆられ、ゆられ
 もまれ、もまれた苦しさの
 疲れの影にすぎないのだ!

 この詩篇を鑑賞する笹原さんの文章も素晴らしい。「これは金子光晴の詩「くらげの唄」である。一見なげやりで、捨てばちで、ふてぶてしくみえる言いまわしの底に、すさまじいばかりの自己凝視と峻厳な自己批評がひそんでいる。」と簡潔に作品紹介をした後、詳細に詩句に対する緻密な分析を行い、次のように、素晴らしいまとめ方をしているのでその一部を引用しよう。

 そうした主題を表現するにあたって光晴は、波が「くらげ」から一切のものを「さらっていった」と同じように、「くらげ」の存在をとりまくものの一切(波と海水以外のものは一切)を取り除いてしまっている。彼の眼は「くらげ」の存在にもっぱら注がれ、それを即物的に形象することにむけて表現上の努力が注がれている。どの詩句をとってみてもむだがなく、的確であって、ここに繰りひろげられているイメージは深く、豊饒でありそして鮮明この上もない。「くらげ」の存在の芯の芯まですっかり見透かされ、そこに存在の本質が、むしろ非在の本質が明かされている。「心なんてきたならしいものは/あるもんかい」という詩句以降、作者は「いやいや」という否定的表現を重ねながら、いっきょに自己の存在の探索におもむいていく。そうした探索のきわみにおいて光晴は、「からつぽ」でも、「からだを失したこころ」でもなく、「こころをつつんでゐた/うすいオブラート」ですらない自己の姿を(それらはまだ「からつぽ」「からだを失くしたこころ」「うすいオブラート」といり存在であり得た)、つまり「もまれ、心まれた苦しさの/疲れの影にすぎない」自己の姿を発見した。そして彼は、自己の存在が存在の「形」にすぎないものであると自覚すること、言いかえれば、自己の非在を自覚することによって、逆に、まぎれようのない自己の存在を発見し、確認することができたのである。そこには、自己を含めた一切の存在に対する峻厳な批評が働いている。自分自身にもごまかされることのない強靭な精神がみなぎっている。

 この「くらげの唄」の次に、もう一篇同じ金子光春の「赤身の詩」という詩篇を引用している。そして、詩における「批評」の精神を、金子光春に託して熱く論じている。まず、その詩篇を引用しよう。

   赤身の詩


 革手袋を裏返すやうに
 ずるりと皮膚をひん剥がれて、
 血管がのたうち
 神経が裸になった掌。

 
 風がいたい。
 空気がひりひりする。
 薬も塗らず、包帯もしない
 赤身の掌は、


 鋤ももてない。
 ペンももてない。
 なまあつたかい
 大つぶの雨が、


 ふりすぼりながら
 霞弾のやうにはぜる。
 この刑罰をみつめてゐるのは
 おなじやうに赤裸なこころ。


 いつなほるのだろう?
 いつ?
 うす皮でもいゝ。
 皮ができるのは?

 
 この掌のうへに
 玉のおもさを秤り
 この掌で
 ほかの掌を愛撫できるのは

 この詩篇と金子光春に対する評価を語る笹原さんの論調には、熱がこもる。詩における批評精神とは、どんなものなのか、引用するしかない。

 「東京の廃墟に」という副題のついたこの詩は、敗戦直後の廃墟に立って、それまでの自分の生き方を激しく弾劾する、そうした厳しい精神によって書かれている。自己の行為を隅々まで見わたし、どんな些細な事柄も見逃がさず、妥協することを絶えて知らず、苛烈な自己凝視を通じて徹底した自己断罪を行なっている。詩集『飲』以降の諸特集にみられる詩精神の強靭さは、この時期の日本の多くの詩人が持たないものであった。それはほとんど稀有のことであった。それにもかかわらず金子は、ここで仮借のない自己断罪を行なっている。しかも「この刑罪をみつめている」ものは、「おなじやうに赤裸なこころ」であると言っているのだが、そこに金子光晴の徹底した批評精神をみてとることができる。

 「見る自己の確立」がその内部にはらまざるを得ない「批評」の厳しさについて、金子光春詩篇を通して熱く語ったあと、最後に笹原さんは、詩人にとって見るということと言葉との関係に議論を進める。「詩人の見る行為は言葉によって行なわれる。この場合、見た世界を形象するに言葉をもってするというふうにだけ考えるのは不正確であって、見ることそのことが言葉をもってなされるのであり、言いかえれば、絶えざる言葉の発見によって世界の発見がなされるのであり、またそのことによって見る行為は成就し、詩的世界が成立する。」このように、詩人は、新しい言葉の発見を通して世界を発見し、見みる行為を成就するとしている。そのうえで、言葉を通して見るという行為を成就する、詩作という作業の困難を次のように指摘している。

 言葉はしかし、概念的、一般的、抽象的な性質のものである。物の概念を抽象してとらえるのには適しているが、詩人が(詩人とはかぎらず)見ることに徹し、自己の見方によって独自の個性的な世界を発見しようとする、その場合の武器としてはあまり適してはいない。言葉はかえって、個々の(具体的な)発見を概念性、一般性、抽象性のなかに解消してしまう強い力を持っている。「美は沈黙である」という指摘はその辺のことを言っていると思われる。しかし詩人は言葉をもって世界を発見しなければならない。

 このように言葉をめぐる詩人の現代的なアポリアを語り、最後に田村隆一のストイックで何とも美しい「帰途」という詩篇を引用して、この長い詩論を閉じている。最後に、その「帰途」を引用しよう。

   帰途


 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら

 
 あなたが美しい言葉に復讐されても
 そいつは ぼくとは無関係だ
 きみが静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ


 あなたのやさしい眼のなかにある涙
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる

 現代詩の批評精神が、周到な鑑賞の力と裏付けをもって成立することが、実感を持ってよく分かる論文。書かれていることを丁寧に過不足なくきちんと読み取るだけでなく、読みこんだ背後に時代を想起、他の作品と関連付けて、さらに奥にある共通する基本的な性格にまで読みを深めること。そこにまで突き進んだ読む行為、鑑賞するという行為は、なんだか現代詩の基本的な性格に回帰してくるようで面白い。
 笹原さんのこの文章、なかなか入手困難だと思ったので、引用を多くして、詳細に紹介した。