武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『井戸』笹原常与著(発行思潮社)

淡い形而上学的叙情とでも評すしかない爽やかな傑作詩集、ほとんど知る人のいない詩集だと思うので紹介したい。
 まず、詩集の表題にもなっている一編を全編読んでみていただきたい。かくも繊細に言葉を取り扱う言語感覚、そっと掬い取られる和えかな産毛のような感受性、笹原常与という詩人の感性が祈るようにして差し出してくる想いを読み取ってほしい。注意深く読まないと大事な感覚がこぼれ落ちてしまいます。

<井戸>

魂は涸れることのない井戸だ
人はめいめい まぶたの裏側に
つめたい井戸を持っている


のぞくと眼のむこうに
人は ただ深いばかりだ
だがその深さが井戸の深さなのだ
手をつるべのように垂直にたらして
井戸の底から水を汲む


空をきって小鳥が墜ちてゆく
しばらくして遠くから
低い水の音が響いてくる
だれかのまぶたの裏側の            
井戸水の音だ


ぼくらの耳はかわいているのに
なぜ 人の奥で溺れて死んでゆく小鳥のはばたきや
水の音がきこえてくるのだろう
なぜ ぼくらのまぶたの裏側に
小鳥の死体が流れつくのだろう


ぼくらのまぶたの裏側にも井戸があるからだ
その井戸にも水が深いからだ
そしてどこかで水は一つになっているからだ


眼の前に立っていた人影が立ち去ったあとも
ぼくらのまぶたの裏側にだけは
なぜ いつまでも人の姿は濡れたままあざやかに
立ちつづけているのだろう
その者の眼や
その眼が見たという
ぼくらの知らない海までもあざやかに


その人影も まぶたの裏側に井戸を持っているからだ
井戸を持ったまま
ぼくらの井戸のふちにまで
素足でおりてきたからだ
そして水をこぼしていったからだ
ぼくらのまぶたの裏側に
まだその水が乾かずに にじんでいるからだ


人と人とが空をはさんでむかいあう
井戸と井戸とが
それぞれ水の深さを保ったままむかいあう
やがて見えない一筋の橋を渡って
人の中から人影が 水を汲みに
こちらのまぶたの裏側の井戸へ
おりてくる
こちらの中から相手のまぶたの奥へ
人影が夕焼けをともなって音もなく
おりてゆく
そしていつのまにか
たがいの井戸に水が往き来しはじめ
水かさが増す


ぼくらがまぶたの裏側に沈めている深い井戸
ぼくらはすべてのものを すべてのことばを
いったんその深みにひたし
水にくぐらせてさらし
そして水の底から汲みあげては
まぶたの裏の空にこぼす
すべてのものは ぼくらの井戸を通って
はじめて確実な存在となる


ぼくらは疲れた手を 深夜
深い井戸の上にそっと置いたまま 眠りにゆく
手の下で 井戸は
夜どうしかすかにふるえながら水を深め
やがて来る夜明けのイメージを用意している


井戸はそうして
深まりながら 涸れることなく
人々によって持ちはこぼれ
まだこの世に現われない
しかしやがて生命を得るであろう者たちの
まぶたの裏側へと こぼさずにうけつがれてゆく
絶えることのない人間の夜明けのほのあかるさのように

 いまだかつて井戸というものを見たことのない若い人でも、水を汲むために地中深く掘り下げられた井戸のイメージが、心の中に浮かび上がってこないだろうか。その井戸は、なんと<まぶたの裏側>にあるという。人と人とがまぶたの裏側の井戸の底で通底しており、たがいの水が行き来しているという幻想、具体的に思い浮かべれば、これほどシュールなイメージはあまり例がないだろう。まぶたの裏側で繰り広げられる、驚くべきイメージの深まりと広がり、それは詩人の人への祈るような信頼へとつながってゆくもの。
 強烈なことばを一つも使わず、ていねいに静かにつむぎだされる優しい言葉、きっかり60度で慎重に淹れられた上質な緑茶の滋味溢れる味わいのように人の心を癒してくれる安らぎに満ちている。
 もう一編、紹介しよう。今度は、少し厳しい散文詩、読み終わったとき、思わず眼を閉じて息をとめてじっとしてしまいたくなるような一編。

<首吊り>

はてしない落下だった。すべての世界すべての存在すべての蔭 落下を支える距離や速度 自分の両手からさえ それて落ちてゆくことだった。そしてすべてのものの外に 立つことだった。自分からさえ入ることを断わられて 外に立つことだった。自分の中にある坐り慣れた椅子や空 まだ体温を保って立っている生の中へ 帰ってゆくことももはや出来ないことだった。自分を消し去る無色からさえ外に立つことだった。


それからというもの ずいぶん長い夜が過ぎていったように思われた。しかし夜に体中つつまれるということがなかった。それで寒い世界をかかえつづけていた。見えなくなった瞳 しかしそれだけ敏感になった瞳のすぐむこうに 雪の降り積むかすかな気配が感じられた。夜が吐息のように音もなく 深くなってゆく気配がわかった。でも外がどんなに深い闇にとざされても だれものぞくことの出来ないわたしの存在の芯 そこには夜からとり残された熟しきらぬ果実の青さの薄明があった。


外の人たちは わたしを「夜だ」と言った。まだその人だちと同じ青さの空の中に立っているのに 外の人たちはわたしをさして「夜だ」と言った。あかりをともすことも出来ない 長い長い「夜」の持統だと。でも本当は わたしは夜からさえ見はなされたのだ。わたしは夜の外に区別の姿で立っていた。外の人たちは夜に触れて 自分の世界に灯をともすことが出来た。自分の夜を持っている外の人たちは 夜につつまれて 自分をそっと消すことが出来た。自分を消して そこで夜どおし泣くことが出来た。しかし距離からさえ見はなされたわたしには 参いても歩いても夜がやって来なかった。夜の中に存在を消すことが出来なかった。ただ独り眼ざめつづけ 薄明を持ちつづけたまま わたしは自分の苦痛 自分の悲しみとむかいあって過ごした。そして夜明けというものもなかった。夜を持つ外の人々が 悲しい灯やむらさきの灯をいっぱいに点している時 その時わたしは夜からさえ区別されて 本当のくらやみだった。


やがて朝が来たが 夜を持たぬわたしは 本当のひるまを持つことも出来なくなっていた。人々はわたしをさして「蔭だ」と言った。いったんそこに溜った水溜り いったんそこにまで満ちてきた海 それらがいつまでも乾かぬ蔭だと。どんな明るさをもってしてもぬぐい去れぬ背のままの蔭だと。どんなに明るい天気がすぐ外に来ても それ自身はいつも陽のあたらぬ世界 たまにそこへ入っていった天気も すぐに消されてしまう世界だと。


でも本当はわたしは蔭でさえなかった。夜にもひるまにも蔭にさえも属さぬ世界 それらを越えた 落下のはての無限の広さだった。
わたしは叫んだものだ。落ちてゆきながら。外の夜にむかって 外のひるま 外の空にむかって。わたしを わたしの存在を消してくれと。しかし何ものもそれに応えてくれなかった。ただ深い沈黙だけが わたしをとりまいていた。そして前よりも一層限りない区別 一層深い静寂の中に これ以上落ちこみようのない世界に わたしは立たされていた。
今は 外からのさまざまな声に耳かたむけ それを吸いとっているかのように小首をかしげ しかしみずからはひと言の叫び声もたてず 夜の区別 ひるまの区別も及ばぬ世界 それらを越えた世界に わたしはつまさきだちして ぶらさがっている。

 この詩編が表出している言いようのない断絶感、さびしい孤独の感覚は何だろう。この詩人が何かのきっかけで抱え込んでしまった絶望だろうか。読んでいてこちらが辛くてたまらなくなる、言葉使いが丁寧で正確無比なだけに、容赦なく迫ってくるものがなんとも息苦しい。私は、戦場の写真で時折見かける、モノクロの吊り下げられた死体を思い浮かべた。
 ネットで調べたら詩人は、1932年生まれだそう。幼少年期が、戦争の時代に重なる世代だ。不条理な戦争の影響が感じられるが、あまりに静かで深いイメージは、ほかの事を指すのかもしれない。あるいは、人間の存在そのものの宿命的な孤独感なのか、感覚と観念の間を行き来するような鋭敏で透明な感覚が素晴らしいと私は感じた。