武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『新版貧乏旅行記』つげ義春著(新潮文庫)

toumeioj32005-09-17

 つげ義春のマンガが気に入って、昔、「ガロ」という月刊マンガ雑誌でよく読んだ。一読、ストーリがうまいわけでも、絵が特にうまいわけでもないが、なぜか強い印象を残して、また読み返してしまう。不思議なマンガ家だった。コマとコマの間に、時折とんでもない飛躍を挟み、絵の力なのだろうが、それを飛躍と感じさせないで自然に納得させてしまうのが不思議だった。どんな人柄だろうと、よく想像した。
 この旅行記だが、友人から借りて以前に晶文社発行のものを読んで気に入ったことを思い出した。その本は、平成3年発行とあるからその頃のことだったと思う。その時の版とは違い、この文庫には、新しく「つげ義春旅マップ」と「旅年譜」が追加されている。この旅マップを見て驚いた。なぜか、北海道には行っていないようだが、全国各地、実によく旅行している。旅年譜をみても、時間さえあれば旅行に出かけていたことが分かる。挿入されている写真に写っているのは、すべて鄙びた古い懐かしいかつての田舎町の風景、多分、つげ義春さんが自分で撮った写真ではないかと思うが、人っ子一人いない寂しい情景。こんな風景をあえて写してくるつげさんと言う人は、相当の人間嫌いではないかと言う気がする。人がいない古い風景には、人の心を癒す不思議な力があることに気がついた。
 旅行記について。つげ義春旅行記は、目的に向かってゆく旅行記ではない。頂上を目指す登山などとは正反対、日常の生活から抜け出し、行き先はあるもののややあてどない漂白の感じで、出たとこ勝負、浮遊するように漂っていき、あるところで、昔の出来事を思い出し、別のところで現地の人と話し込み、神経が癒される感覚を大事にしながら過ごす時間。文章には力む感じが全くなく、何が面白いのか分からないまま読み進むにつれて、こちらの疲労感が薄らいでゆく。つげ義春の文章を読み進んでいくとき、奇妙な安心感と言ったらいいか、リラックスした感じになる。
 不思議だ。凄い旅をしているわけでも、珍しいものに出会ったいるわけでもない。どちらかと言うと、観光資本の注意からそれてしまい寂れるままに放置されているようなところへ出かけていっている。繁栄や開発から取り残されたところに安らぎを見つけているのか、たまにはそんな旅行もいいかなという気になる旅行記。売ってしまわないで、たまに拾い読みしたくなる不思議な魅力がある旅行記である。