武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『ロマネ・コンティ・一九三五年』開高健著(文芸春秋)

toumeioj32005-12-26

 開高健が作家として、一人称で語ることをためらわなくなり、作品に濃厚に自らの体験を挿入するようになってからの長編作品の傑作が「夏の闇」だとしたら、短編作品集の傑作が本書「ロマネ・コンティ・一九三五年」になるに違いない。瑕なく磨き上げられた完成度からすれば、本作の方が「夏の闇」以上ではないかと思う。それほどに、この短編集は素晴らしい。
 本作は、6編の短編小説を集めた短編集だが、かれこれ20年、私はこれ以上の短編集に出会っていない。溜め息が出るほどに素晴らしく、何時どの1編を読んでも、極上の読書の一時が過ごせて、短編を読む喜びに満たされる。どうしてこんなに素晴らしいのか、その理由を尋ねても、特段構成に優れているわけでも、見事なあっと言わせる落ちが設定されているわけでもなく、それでいて類稀な傑作短編集としか言いようがない不思議な短編集である。
 ①語り手は一人称の<私>だが、つとめて主語として文章の中に登場しないようにしてある。どの作品も中年期にさしかかった男の灰汁の強い自己主張なのだが、控えめでさりげない文体の奥に、自己主張は押し隠されている。子どもがよく自慢話にならないように注意しつくした自慢話というやつに似ている。いずれも、男がこれまでに体験した類稀な快楽体験の報告になっているが、幾重にも苦渋の包装紙に包まれたほんのひとしずくの輝かしい一瞬を定着したもの。一編読むたびに深い溜め息がでてご苦労さんと言いたくなる。それなのに、読み手のこちらに小さな癒された小さな安堵の感覚が残る。「悪くないナ」と小さな声で呟いている。
 ②文章は極めて明晰、透明度がたかく濁りのない練り上げられた文体、だが、どこに連れて行かれるのか、一文一文を辿っている時には、迷い道を進んでいるような軽いあてどなさがある。微妙にわき道にそれているような感覚といえばいいか。鮮明だが曖昧、明るい暗さと言えばいいか、とらえどころがないが、実にしっかりした文体が自在に、男の体験を紡いでゆく。どの場面にも、男の幾重にも積み重なった分厚い時間が濃密に流れる。文章の流れに身をゆだねているだけでも何だか気持ちがいい。美文に眼がくらむのではない。文体にコクがあって美味しいのだ。だから、読んでいるだけで気持ちよくなれる。
 ③作品の中心となっている快楽体験へ接近してゆくプロセスが、困惑や苦渋や困難や隘路に適度に満ちていて、期待感をそそる。快楽は身体的な体験だが、接近のための手続きを通して、精神的な修行を通り抜けてゆくような印象すら受ける。著者には、快楽のあるべき姿として、そのような思い入れがあるのかもしれない。無防備にごろんとそこら辺に転がっているような体験を快楽と認めていないのだろう。
 ④目次は、「玉、砕ける / 飽満の種子 / 貝塚をつくる / 黄昏の力 / 渚にてロマネ・コンティ・ 一九三五年」。いずれもが、磨きこまれた珠玉のような名品ぞろい、どんなに分析しても、なかなか良さに近づけないのでこれくらいにする。是非、読んで味わってみて欲しい。