武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『古典落語CDの名盤』京須偕充著(光文社新書)

toumeioj32006-02-23

 私はガイドブックの類が大好き、世の中には幸か不幸か、不覚にもよく知らないジャンルが両手に余るほどあり、なにかのきっかけで興味がわいてしまった時お世話になるガイドブック。その世界の酸いも甘いも噛み分けた達人が、手抜きなしに初心者を想定して丁寧なガイドブックを書かれる時、名著が誕生する条件がいくつか揃うのかもしれない。
 これまでに読んだ良いガイドブックと言われる本には、期待以上の何かがあった。取り扱われているジャンルの滋味溢れる薀蓄と、語られる内容の背後から押し寄せる、好きな世界について語る人特有の滲み出る喜びの感覚。読者としては、知る喜びにプラスして生きる喜びまでもプレゼントされたような快楽にひたることができる。
 入門書など手に取るよりもまず体験あるのみという人もいるが、勿体ないこと。運転を習う前に運転の本、セックスを知る前にセックスの本、泳ぎを習う前に泳ぎの本、何か面白い本はないかとめくる読書案内、拾い出したらきりがない。私はこの人生を本によって導かれたからこそ、今まで大過なく過ごしてこれた気がする。手に取った案内書の類を全部積み上げたら、私の人生以上に充実したものになるかもしれない。かつて、寺山修司が「書物を捨てて街に出よう」と呼びかけた気持ちが分かる。
 さて今回は京須偕充さんの『古典落語CDの名盤』なる新書、出るべくして出たと言おうか、多くの落語ファンによって待ち望まれていた1冊だと感じた。誰もが寄席へ通える時間的および地理的条件に恵まれているわけではないので、ラジオやテレビなどの放送メディアを利用してきたが、大量に普及してきた落語CDを交通整理してもらえると、本当に助かる。便利な本が出たものだ。行きたくても寄席へ行けない人、亡くなられた名人の噺をぜひとも聴いて見たい人、CDという便利なメディアが越えがたい溝を埋めてくれる。何とうれしいこと。
 この本のガイドのやり方は極めてシンプル、【はなし】と題された簡潔な落語のストーリーの要約、どんなにストーリがネタバレしても古典落語は話術の芸なので、これを読んで聞いた気になるのは古典落語を知らない人、聴いてみたい話を探すのに丁度いい分量、そして【ききもの、ききどころ】では推薦CDの名盤たる所以がずばり指摘され、最後に【これぞ名盤】でCDのデータが示される。
 全部で70ほど紹介されており、ふとした時間に拾い読みしているとすぐにでもそのCDを注文して聞いてみたくなるから困る。【はなし】の要約が落語のストーリーを要約してあるだけでなく、落語の雰囲気まで巧みに取り入れており、最後のサゲにいたるまでのお話が読ませる。ただ、この本の素晴らしいところは、少しも笑えないところ、とにかくまじめで端正な記述、笑うにはCDを聞くしかないという仕掛けなのかもしれない。古典落語のベストガイドブックとしてだけでなく、読み物としても素晴らしい。いい時間が過ごせる本ですよ。