武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 現代詩に目を開かされた「氷った焔」の詩人、清岡卓行さん死去

toumeioj32006-06-06

 新聞の社会面をひらくとすうっと視界に浮かび上がってくる見出しがあるのが不思議だ。殺伐とした世相を反映して大きな見出しが躍っていても、お悔やみの記事がなぜか目に飛び込んできた。詩人で小説家の清岡卓行さんが83歳で6月3日に亡くなったとの記事だった。
 私は清岡卓行さんの良い読者ではなく、小説を書かれるようになってからの作品はほとんど読んでいないが、10代の後半の何時頃だったか、『氷った焔』という清岡さんの第一詩集から強い衝撃を受けた。詩集そのものは手にしたことはないが、その詩集のなかの作品は、田舎者の私にとって目から鱗のカルチャーショックだった。その印象が余りに強くて、その後の清岡さんの作品にかえって馴染めなくなってしまったほど。
 調べてみると1959年2月に詩集出版のユリイカから発行されたらしいが、1960年代の半ば辺りで、何かのきっかけで目にした事しか憶えていない。解説では、シュールレアリズムの自動記述の技法を使い、無意識の世界をとらえようとした実験作たしいが、言語の実験がこのように美しく衝撃力をもつということがショックで、表現についての考え方を一挙に広げてくれた一編だった。
 どんな言葉を使っても、作品の素晴らしさを伝えようがないので、全編をそっくり引用してみよう。

氷った焔

 1


きみの肉体の線のなかの透明な空間
世界への逆襲にかんする
最も遠い
微風とのたたかい

 2

きみはすでに落下地点で眼覚めている
きみはすでに絶望している

 3

きみの物語にはいない きみである動物の
不眠の 瞳が
きみの悔恨を知らない きみである液体の
滑走する皮膚と
そのための 幻覚の虹が
絶えず出発してしる現在の合図に
どうしてただちに滅されるのか
−−きみはそれを見ない
きみの鋭く 優しい 爪の動機であるうちに
きみの姿勢 きみの呼吸のなかから
死灰が層をなしている地球の表皮から
それらはどのようにして飛び去るのか
−−きみはきみの絶望を信じていることを知らない

 4

きみの意識がきみに確かめられるのはそれからだ
すると逆流する洪水のなかで化粧するきみがいる

 5

生活への扉 ときみが信じる時刻に
きみは見る
遮断された未来の壁に
モこに嵌め込まれたバック・ミラーに


でこぼこの飛行場のうえの
果物にとりかこまれた
昆虫の視線を怖れない
おお ふしぎに美しいきみの骸骨

 6

きみの記憶の組合せは気まぐれだ このとき
過去を あるやりかたで
記録することにしかきみの自由がないかのように

 7

倒れようとするビルディングに凭れて聴いた
地底からの音楽の
鉄条網にひっかかった
夢みる熱帯魚の
砂浜のなかに埋れて行く
水平線への投身の
力学的な矩形を弛緩させ燃えあがらせる
長く冷たい凝視の
そして いつも愛情で支払われたきみの
幼く成熟した肉体の
それらの ちぐはぐな思い出
おびただしい初演のなかのきみの仮死

 8

起点も終点もない あやしげな
地球の円周のうえを
モれでも交錯する探照灯の脚光を
ときおり浴びながら
きみのハイ・ヒールだけが斜めに歩く
きみに背負わされたものは きみの肉体
きみを隠匿する その親しい他人
きみの企む復讐の実験の
重すぎる予感

 9

きみの白い皮膚に張りめぐらされたそこびかりする銃眼
すでに氷りついた肉の焔たちの触れあう響き
弾丸も煙幕もない武装の脆計
きみだけが証人である
みじめな勝利


きみはまだきみが信じたきみだけの絶望に支えられている
きみが病患のなかに装填したものはほんとうは
もうひとつの肉体の影像
世界への愛
希望だ

 10

どこから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない


きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを
きみの記憶と地球の円周を決定的にえらぶことを
夜の眠りのまえにきみはまだ知らない

 どうですか、この新鮮な言語感覚、いくつかのフレーズを当時の私は、唄のように口ずさんだりしたことだった。特に、<きみ>という人称代名詞の使い方の呪術的な強烈さ。<きみ>は言葉の求心力の中心であり、フレーズを展開する原動力であり、無意味さが侵入して言葉をばらばらにしないための接着剤であり、しかもその上に詩人が幻想する愛する人の仮構の軸でもあるという、いわく言いがたい言葉の魔術。
 十代の私の美意識が、引き裂かれるような衝撃を受けた詩編が、これ。その後、清岡さんはあやうい意味と無意味、狂気と正気のあわいを綱渡りするような詩を書かなくなり、きわめて分かりやすい普通の日本語の作品を書くようになり、やがて芳醇な日本語を駆使する散文家になってしまわれた。
 清岡さんの「氷った焔」に出会うことがなかったなら、私の日本語の表現力に対する認識は、今とは少し違ったものになったかもしれないという気がする。感謝の気持ちを込めて、ご冥福をお祈りしたい。