武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『白楽天詩集』白居易著武部利男編訳 (発行平凡社ライブラリー1998/8/15)


 中国の古典文学ほどこの国の文学的感性に大きな影響を与えたものは他にないだろう。にもかかわらず、漢詩を日本語に翻訳する試みはこれまであまり精力的には取り組まれてこなかった。その理由について、中国文学研究者である荒井健氏は中国詩人選集のしおりの中で、かつて二点ほど指摘されたことがある。同感なので要点を引用する。
 一つは、訓読による読み下しという、便利な直訳技術を発明したために、その便利さが徒となって翻訳技術の発展を妨げ、詳細な注釈を膨れあがらせるという研究方法が発達した。注釈は研究者向き、一般の読者には読むのがつらい。

 もう一つは、漢詩の性格からきており、一行一行に極度に圧縮された内容が盛り込まれているため、意味を掬い上げて日本語に直そうとするとどうしても間延びしてしまい、また、古典からの引用によるモザイクになっている古典的な詩文の性質が、翻訳を困難にしてきた。  
ところがこの困難を極める漢詩の翻訳に果敢に挑戦し、見事に成功している翻訳に遭遇したので、紹介したい、武部利男訳の「白楽天詩集」がそれ。地名や人名などの固有名詞は、欧米語の翻訳と同じくカタカナ表記を使い、他はすべて平仮名表記に徹するという過激な日本語訳、巧みに分かち書き用いて、日本語として読みやすいように工夫してあり実に面白かった。
 かつて会津八一が短歌で追求したような平仮名だけの分かち書きを駆使し、難しいと言われる中国古典の詩文を平易な日本語に置き換えることに成功している。感心したのは、固有名詞に対する注を最小限つけたほかは、一切の注釈をきっぱりと省いてしまったこと、このことにより、漢詩を読むときの煩わしさは、きれいさっぱり払拭され、読みやすくかつ分かりやすくなり、すいすいとページを捲ることが出来るようになった。考え抜かれた素晴らしい翻訳スタイルである。
 原詩で使われている漢字にまったく依存することなく、平仮名だけの日本語で詩の内容を表現しようとしたこの方法は実践的にはかなりの困難が予想される。この方法を貫いて、一冊にまとまるだけの分量を選び出し、翻訳しぬいた努力と根性に感服した。これこそ翻訳の労に報いる翻訳賞にふさわしい仕事だが、おしくも無冠のまま亡くなられてしまったらしい。
 内容は5章に分かれ、白居易の作品全をバランスよく反映する偏りのないものになっている。少し目次に手を加え、内容を紹介しておこう。

第1章 「秦中吟」10首、「新楽府」29首をふくむ諷諭詩。46首。
第2章 閑適詩。44首。
第3章 「長恨歌」「琵琶行」をふくむ感傷詩。18首。
第4章 雑律詩。16首。
第5章 晩年の作。2首。
補遺  6首。

 参考のため、気に入った一篇をそっくり引用しておこう。独特のバランス感覚を身につけた個人主義が面白い。まさに<閑適><独善>というに相応しい態度と言える。

なかほどの いんじや(中隠)


おおものは まちなかに すむ
こまい やつ おかに かくれる
おかの うえ ひどく さびしい
まちなかは ひどく やかまし


なかほどの いんじゃと なって
ひまな やく ひきうけるべし
でる ごとく かくれる ごとく
せわしからず たいくつも せず


きにも せず ちからも ださず
ひもじさも さむさも しらぬ
いちねんじゅう しごとは なくて
つきづきに ほうきゅうが でる


きみが もし やまが すきなら
まちの みなみ あきの やま あり
きみが もし あそび すきなら
まちの ひがし はるの その あり


きみが もし よいたくなれば
パーティに でかけるが よい
ラクヨウは くんしが おおい
おもしろい はなしが できる


きみが もし ねていたければ
ただ ふかく もん とじなされ
やくにんが くるまに のって
いそがしく くる ことも ない


ひとの よは いっぽんの みち
ふたつながら よい ことは ない
ひくければ うえて こごえる
たかければ うれいが おおい


なかほどの いんじゃが ひとり
めぐまれて その み やすらか
おちぶれず えらくも ならず
ぜいたくせず けちけちも せず

 <独善>をエゴイズムと訳することも出来ようが、白居易個人主義は味読するに値する味と苦渋が背後にはあるように思われる。絶版となり入手が困難となっているので、是非図書館などで手にとってご覧頂きたい。有名な長編詩「長恨歌」と「琵琶行」の日本語訳は力作、期待通りすらっと読めて余韻を残す。