武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「人生処方詩集」 エーリッヒ・ケストナー著 小松太郎訳 (発行角川文庫1966/4/30)


 今はなき寺山修司は、この詩集のコンセプトが気に入り、自分でも同名のアンソロジーを編んで新書を作ったりしていた。読んでみるとケストナーのこの詩集は、題名となっている編集方針もさることながら、個々の詩編が大変に素晴らしく、私は長年愛読し、手放さないでずっと持ち続けてきた。
 今回、何となく気になって調べてみたら、この詩集を価値ありと見る人が多いためか、翻訳にいろいろな版があることがわかった。私が気に入っている小松太郎訳のものが2種類(ちくま文庫版と角川文庫版)、飯吉光男訳の思潮社版上下、高橋健二訳の<かど創房>版などが出ていることが分かり、図書館を利用して全部を読み比べてみた。
 まず、小松太郎訳の2種類について、ちくま文庫版は、1952年に創元社から刊行された「叙情的人生処方詩集」の再刊、解説の註には「ここではリズム、テンポの点でより明快な創元社版によった」とされている。創元社版が昭和27年、角川文庫版が昭和41年、間に14年もの開きがある。
 この14年の開きが持つ意味は、小さくない。私の印象では、後になって刊行された角川文庫版の方が、はるかに日本語への翻訳がこなれており、読んでいて実にしっくりする。原作の意味を日本語に移し替えることに多く気をつかった洋風の味付けが、14年後には、和風のよりなじみやすい味付けに変わっている。比べてみて気がつく最大の特徴は、はじめの翻訳では多用されていた漢字の使用が減らされて、ひらかな言葉に置き換えられており、変換された日本語としてよく熟している気がする。この訳を越えるのはなかなか難しそう。

 続いて、1983年にドイツ文学の翻訳に大きな足跡をのこした高橋健二の翻訳、この本にしかない特徴は、訳詞のはじめに、本編では慎重に省かれたケストナーの戦争詩(反戦詩)が四編挿入され<平和が脅かされてきたら>と題されて載っていることである。ケストナー特有の相当にシニカルな作品が引用されており、ナルホドと感心したが、他の詩編との溝はやはり深い。私としては、別にケストナーが書いた戦争詩をそれとしてまとめて読んでみたという気がした。それ自体が一冊の詩集として編まれる大きなテーマだ。
 それでは本来の処方詩集の方はどうだろう、さすがに日本語としての意味はよく通り分かりやすい。だが私には捻りというか、文体の癖のなさが何故だか物足りなかった。


 今のところ刊行されているなかで一番新しい飯吉光男訳の思潮社版はどうだろう。特徴は正続2巻に分かれていること、真鍋博風のイラストが所々に配されて、軽妙さを意図した本作りをしている。訳は小松、高橋両氏のものを参照したと断っているように、分かりにくいところは皆無、作者の持ち味を日本語にいかに含ませるかだと思うが、その点は残念ながら私にはよく分からない。もう少し捻りがきいていても良いのではと思うが、好みの問題だと言われればそれまで。
 どれが一番好きかと言えば、小松太郎訳の角川文庫版、好みによるとしか言いようがない。所々、日本語として古い言葉遣いもあるが、私自身古い人間、その古さがしっくりなじめる一因なのかもしれないが、それはそれで構わないだろう。この評価は好みなので、公正な価値判断ではない。
 さて、面白いのはこの詩集の目次、いわゆる目次は後ろに回されて、効能別の索引が前に来ている。詩による処方箋たる所以である。効能書きの下に、ページ数が並んでおり、目指すページがすぐ引けるようになっている。

使用法(索引付)


年齢が悲しくなったら
貧乏にであったら
知ったかぶりをするやつがいたら
人生をながめたら
結婚が破綻したら
孤独にたえられなくなったら
教育が必要になったら
なまけたくなったら
進歩が話題になったら
他郷にこしかけていたら
春が近づいたら
感情が貧血したら
ふところがさびしかったら
幸福があまりにおそくきたら
大都会がたまらなくいやになったら
ホームシックにかかったら
秋になったら
青春時代を考えたら
子供を見たら
病気で苦しんだら
芸術に理解がたりなかったら
生きるのがいやになったら
恋愛が決裂したら
もしも若い娘だったら
母親を思いだしたら
白然を忘れたら
問題がおこったら
旅に出たら
自信がぐらついたら
睡眠によって慰められたかったら
夢を見たら
不正をおこなうか、こうむるかしたら
天気が悪かったら
冬が近づいたら
慈善が利子をもたらすと思ったら
同時代の人間に腹がたったら

 四つの翻訳を比べてみるために、詩集の最初に出てくる「列車の譬喩」という詩編を、刊行順に列挙してみよう。原作が同じなのでよく似ていますが、微妙な違いが面白く、私は読み比べて感心しました。翻訳とは大変なお仕事ですね。

*列車の譬喩(小松太郎訳、創元社版、ちくま文庫版) *列車の譬喩(小松太郎訳、角川文庫版)
ぼくらはみな同じ列車にこしかけ ぼくらはみな おなじ列車にこしかけ
時代を旅行している 時代をよこぎり 旅をしている
ぼくらはそとを見る ぼくらは見倦きた ぼくらはそとを見る ぼくらは見あきた
ぼくらはみな同じ列車に乗っている ぼくらはみな おなじ列車で走っている
どこまでか 誰も知らない そして どこまでか だれも知らない
        
隣の男は眠っている もう一人は小言をいっている となりの男は眠っている もう一人はこぼしている
あとの一人はさかんにしゃべっている あとの一人はさかんにさえずっている
駅の名がアナウンスされる 駅の名がアナウンスされる
歳月を走る列車は 歳月を走る列車は
いつまでたっても目的地へ着かぬ どうしても 目的地に着かぬ
       
ぼくらは鞄をあけたり締めたり ぼくらは荷をあける ぼくらは荷づくりする
さっぱりわけがわからない さっぱりわけがわからぬ
あすはどこへ行くのやら? あすはどこに行っているやら
車掌はドアからのぞいて 車掌がドアからのぞき
ニヤニヤ笑うばかり ひとり にやにやしている
       
行きさきは車掌も知らない 行くさきは 車掌も知らない
車掌は黙って出てゆく 車掌は なんにも言わず出ていく
突然けたたましく汽笛が鳴る! そのとき汽笛が かんだかな唸り声をあげる
列車は徐行してとまる 列車は徐行して とまる
死人がゾロゾロ降りる 死人が いくたりか おりる
       
子供が一人降り 母親が叫ぶ 子供がひとりおりる 母親が叫ぶ
死人は過去のプラットホームに 死人は 無言で
黙って立っている 過去のプラットホームに立っている
列車はまた発車する 列車は時代を走る 列車は駈けつづける 時代をよこぎり ひた走りに走る
なぜだか 誰も知らない なぜだか だれも知らない
       
一等はほとんどガラ明き 一等はほとんどがら明き
ふとった男が一人 赤いビロードに ふとった男がひとり 傲然と
傲然とこしかけ 苦しげに息をしている 赤いフラシテンにこしかけ 苦しげに息をしている
彼はひとりぼっちで ひどく淋しがっている 彼はひとりぼっちだ そしてしみじみそのことを感じている
たいがいは木の上にこしかけている たいがいは木の上にこしかけている
       
ぼくらはみな同じ列車で旅行している ぼくらはみな おなじ列車で旅をしている
現在は、希望をもって 現在は 希望をもって
ぼくらはそとを見る ぼくらは見あきた ぼくらはそとを見る ぼくらは見あきた
ぼくらはみな同じ列車にこしかけている ぼくらはみな おなじ列車にこしかけている
そして 多くはまちがった車室に そして 大ぜいが まちがった車室に

  鉄道のたとえ高橋健二訳、かど創房版)


私たちはみんな同じ列車に腰かけ、
時代を横切って旅している。
外を見る。私たちは見飽きた。
私たちはみんな同じ列車に乗って行く。
どこまでか、だれも知らない。


隣の男は眠っている。もひとりは小言を言う。
もうひとりはさかんにしゃべる。
駅名がアナウンスされる。
歳月をかけぬける列車は
ついぞ終点には着かない。


私たちは荷物を出したり、入れたりする。
その意味はわからない。
明日はどこにいるだろう?
車掌がドアからのぞきこみ、
ただにやにやする。


車掌だって、どこへ行くのか、知らない。
彼は無言のまま、出て行く。
とつぜん汽笛がかんだかくわめく。
列車は徐行して、とまる。
死人がぞろぞろおりる。


子どもがひとりおりる。母親がさけぶ。
死人たちは過去のプラットフォームに
無言で立っている。
列車は進む。時代をかけぬける。
なぜだか、だれも知らない。


一等はがらあきだ。
太った男がひとり、赤いビロードに
ふんぞりかえり、苦しそうに呼吸している。
彼はひとりぼっちで、ひどくそれが気になる。
多数の人は木のいすに腰かけている。


私たちはみんな同じ列車で旅する。
現在のところは、希望をもって。
外を見る。私たちは見飽きた。
私たちはみんな同じ列車に腰かけている。
多くの人はまちがった車室で。



  汽車にたとえて(飯吉光男訳、思潮社版)


わたしたちはみんな ひとつ汽車にのって
時を突っきりながら旅行しています
わたしたちは外を見ます もう見あきました
わたしたちはみんな ひとつ汽車にのって走っています
どこまで行くのか 誰も知りません


隣りのひとは眠っています 別のひとは嘆いています
また別のひとはのべつまくなしに話しています
駅の名まえがアナウンスされます
くる年くる年ひたすら突っぱしる汽車は
いつまでたっても終点に着きません


わたしたちは荷ほどきしたり 荷づくりしたり
何が何やら分りません
明日はどこに着くのやら
ドアから車掌がのぞきこんで
あいまいな微笑を浮べています


車掌も どこへ行くのか 知らないのです
ただ黙って 出ていきます
汽笛のけたたましい音!
汽車は徐行して停車します
死んだひとたちが汽車から降ります


子どももひとり 降りていきます 母親の悲しみの声!
死んだひとたちは 無言のまま
過去という名のプラットホームに立っています
汽車は走りつづけます 時を突っきって
どうして走っているのか 誰にも分りません


一等はがらあき
デブの男がひとり 赤いビロードの席に
ふんぞりかえって坐り ハアハア苦しそうに息しています
彼はひとりぽっち そしてそれを痛感しているのです
ほかの人たちはみんな 本のベンチに腰かけています


わたしたちはみんな ひとつ汽車にのって
現在から未来へと旅行しています
わたしたちは外を見ます もう見あきました
わたしたちはみんな ひとつ汽車にのっています
ほとんどの人がまちがった車室に

 石原吉朗の「サンチョ・パンサの帰郷」という詩集の中に、葬式列車という詩編があるが、このケストナー詩編に触発されたと思われる傑作である。傑作が傑作を生み出した幸福な詩の連鎖と言えよう。全編を引用しておこう。

葬式列車(石原吉朗)


なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを

 最後にもう一つ、ケストナーの処方箋詩編の中でもとりわけシニカルなやつを、お気に入りの角川文庫版から引用しておこう。

養老院(老人ホーム、小松太郎訳角川文庫版)


ここは 老人たちの寄宿舎だ
ここでは みんながひまだ
人生の旅の終着駅も
もう 遠くない


きのうは 子供の靴をはき
きょうは ここの家の前にすわっている
あすは 永遠の休息のために
彼岸に 出発する


ああ 一生はいかに長くとも
過ぎ去るのは つかのま
たったいま はじまったばかりではなかったか


ここに 休息のためにすわっている 老人たちは
何はさておき 一つのことを知っている
ここは 最後のてまえの 最後の駅だということを
その中間に 駅はない

 気に入られた方は、是非図書館で捜して見てください。ブラックな諧謔の向こうから、ほんのり暖かい気持ちが伝わってきます。

(追伸)寺山修司編著の「人生処方詩集」入手した。見るとかつて彼の編著による雪華社発行の「男の詩集」の増補改訂版とある。表紙のデザインから推測すると女性読者を想定しているようだ。男性向けを標榜するような「男の詩集」を改訂して女性向けの「人生処方詩集」を構想するなど、いかにも寺山修司らしくて愉快だった。それにしても66年(昭和41年)の「男の詩集」の前書きが、93年の「人生処方詩集」になってかくもピタリと決まるとは、編集者の笑い顔が目に浮かぶようだ。
 そうとうに昔の記憶なので確かなことは分からないが、内容をみると8割程度元の編著作で引用していた詩編が採用されているようだ。構成が一部と二部に分かれて木に竹をつないだような奇妙な具合になっているので、あるいは二部が「男の詩集」からきて、一部を新たに追加したもかもしれない。
 男の詩集を読んだときの感想とも重なるが、改めて寺山修司の詩の読み手としての能力の高さに、感心した。簡単な目次を引用しておこう。

まえがき
プロローグ
第一部
第一章 ぼくの人生処方詩集/ケストナーおじさんのかわり
第二章 あなたのための人生処方詩集
二部
第一章 一人でいるのがったら耐えられなかったら
第二章 理想を見失ってしまったら
第三章 故郷を思レ出したかったら
第四章 詩がきらいでポーツが好きだったら
第五章 ことごとく腹が立ったら
第六章 死について考えたら
第七章 人生がさびしすぎたら
第八章 小説に飽きてしまったら
私自身の詩的自叙伝