武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 黄金郷 上野ちづこ著(発行深夜叢書)

toumeioj32006-07-21

 上野千鶴子の著作を読むようになって何年になるだろう。最初に手にしたのはたぶん「セクシイ・ギャルの大研究」あたりだったのではないか。背後に感じられるしっかりと勉強している者がもつ自信と切れ味のいい言葉の使いまわしが楽しくて、長年愛読者をつとめて来た。
 最近になって、著者名がかな書きになっている<上野ちづこ>著の「黄金郷」なる句集があることを知り、おっかなびっくり読んでみることにした。一読、「セクシイ・ギャル」以来なんとなく気になっていたことがはっきりとして大変に有益だった。
 上野千鶴子フェミニズム系の社会学者だと思って著作を読んでいると、使いまわしている言語表現が、表現技術として洗練されすぎていて、まるで長年の文学者修行で磨き込まれたような、独特の文体をもっていることに感心し、不思議に思ってきた。 文章で表現する者が、おうおうにして落ち込むことが避けられない、不用意な陥穽が見事に回避されているといえばいいか。
 また、短く簡略に端折ってかまわない説明と、具体的に詳細な記述をしないと読み手を納得させられないと思える記述上の表現の微妙な展開、それらの意外にやっかいな難所を一度も踏み外したことがないのが不思議だった。この人は、一体どこでこの鮮やかな文体を身に着けたのだろうと、思ってきた。
 本書を読んで、長年の疑問が氷解したのが、何よりもうれしかった。表紙の帯びに「<終わりし道の標に>開板上野ちづこ処女復帰句集」とある。いわば、俳句作者を終えた記念の意味を込めた句集ということだろう。
 あとがきによれば、著者22歳から32歳までの11年間、1972年から82年までの間、京大俳句という俳句同人誌に発表した作品と俳句をめぐるエッセイが本書の中身。上野さんは、ここで10年も言語の表現者として、感性と表現を仲間の鋭利な批評眼に晒し、表現者として完全武装をなしとげたに違いない。
 既に俳人であることをやめてしまった人の作品なのと、いかにも若者の試行錯誤に満ちた試作品と思われるものが多いので、引用するつもりはないが、多感で真面目で誇り高い青年時代を髣髴とさせる句集となっている。私には、俳句そのものよりも俳句を論じたエッセイの方が面白かった。「上野ちずこ」が俳句をやめて「上野千鶴子」になったことは、そうあるべき必然だったという気がした。
 本書の構成は、大きくは5つのパートに分かれていて、全体のほぼ半分がⅠ部の俳句作品と何人かの作品評からなっている。発表された逆順に編集してあるようだ。
 Ⅱ部は、上野さんの俳句関連エッセイ、Ⅲ部が上野さんを交えたシンポジュウムの談話、Ⅳ部が<十年の後>と題された上野ちづこのあとがき、Ⅴ部が京大俳句同人の解説とあとがき。
 手に入り難い本かなと思っていたが、版元にまだ在庫があって送ってもらった。上野千鶴子という作者に特段の関心がある人なら、読んでみて損はないと思った。俳句が好きな人で、いわゆる前衛俳句になじみのある人になら面白いと思ってもらえるかもしれないが、あえて三ツ星をつけて推薦するまでの自信はない。