武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『人生の特別な一瞬』 長田弘著(晶文社発行)

toumeioj32006-10-05

 長田弘は、<大人の詩人>である。詩は青春の文学と言われるように、多くの詩人は10代〜30代までの青年期に多くの作品をなして、それ以降は散文家になるか、沈黙しないまでも寡作な表現者となる。長田弘には、20代から30代にかけての詩集が4冊しかない。しかも、そのうち1冊は現代詩文庫の編纂もの、独立した詩集は3冊。そして、何故か40歳代には詩集の出版はない。
 ところが、50歳代半ばの94年『深呼吸の必要』以降、10年あまりの間に10冊の充実した詩集を次々と出している。40歳代に著作がないわけではない。エッセイ集などの出版は続いているが、詩集がなかった。長田弘は、50歳代半ばを過ぎて、旺盛な詩作活動に入った詩人といっていいだろう。出版される詩集の数もさることながら、作品の内容の充実ぶりが50歳代以降の作品で際立っている。日本語の豊かな表現の宝石箱の扉を開ける鍵をついに手にしたという感じを受ける。
 日本語の詩集が、大人の心境など成熟した年齢が持つ、豊かで奥行きのある燻し銀のような表現世界を得たことに拍手喝さいを送りたい。参考に、長田弘のこれまでのすべての詩集を引用しておこう。

<青年期>
『われら新鮮な旅人』(1965年・思潮社
長田弘詩集』   (1968年・「あれら新鮮な旅人」所収・現代詩文庫・思潮社
『メランコリックな怪物』(1973年・思潮社/1979年・晶文社
『言葉殺人事件』  (1977年・晶文社
『続長田弘詩集』(1997年・「メランコリックな怪物」「言葉殺人事件」所収・現代詩文庫・思潮社
<往年期>
深呼吸の必要』  (1994年・晶文社
『食卓一期一会』  (1997年・晶文社
『心の中にもっている問題』(1990年・晶文社
『世界は一冊の本』 (1994年・晶文社
『黙されたことば』 (1997年・みすず書房
『記憶のつくり方』 (1997年・晶文社
『一目の終わりの詩集』(2000年・みすず書房
長田弘詩集』   (2003年・自選詩集・ハルキ文庫)
『死者の贈り物』  (2003年・みすず書房
『人生の特別な一瞬』(2005年・晶文社

 さて、同詩人の作品のなかで一番新しい『人生の特別な一瞬』を読んだので、ご紹介してみよう。全編、行分けのない散文の形式で書かれているが、形式など問題ではない。どの詩編からも、詩としかいえないような馥郁とした言葉のリズム、しかも内心の音楽とでも言いたくなるような意味の響きがこちらに染み渡ってくる。思わず「そうだよな〜」と呟くか、しばらく呼吸を整えて黙ってしまいたくなる。そんな、珠玉の作品が贅沢なレイアウトの中に、32編、静かに並んでいる。内容を見事に表現した著者のことばが、あとがきにあるのでそっくり引用する。

 人生の特別な一瞬というのは、本当は、ごくありふれた、なにげない、あるときの、ある一瞬の光景にすぎないだろう。そのときはすこしも気づかない。けれども、あるとき、ふっと、あのときかそうだったのだということに気づいて、思わずふりむく。
 ほとんど、なにげなく、さりげなく、あたりまえのように、そうと意識されないままに過ぎていったのに、ある一瞬の光景が、そこだけ切りぬかれたかのように、ずっと後になってから、人生の特別な一瞬として、ありありとした記憶となってもどってくる。
 特別なものは何もない、だからこそ、特別なのだという逆説に、わたしたもの日々のかたもはささえられていると思う。人生は完成でなく、断片からなる。『人生の特別な一瞬』に書きとどめたかったのは、断片のむこうにある明るさというか、ひろがりだった。 

 確かに断片かもしれない。だが、こうして丁寧でやさしい言葉によって詩人に拾い上げられると、珠玉の輝きを放って、かけがえのない価値であることをそっと教えられて納得、思わずうれしくなってしまう。日々を大切に生きてゆこうと言う気にさえなる。随所に詩人が立ち止まり、振り返り、噛み締めたり、再確認したりして、自分自身に再帰する場面がでてくる。その時甦る、鮮やかな意味の広がりがなんとも言えず懐かしくしかも深い。これぞ<特別な一瞬>といえばいいのか。見事な詩集である。
 しみじみとしたい人に、文句なしにお薦めしたい。