武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 壇ファミリーの食べ物エッセイ(壇太郎を中心にして)



 書庫を整理していたら、懐かしい本が出てきた。壇一雄の「壇流クッキング」「美味放浪記」、そのご子息の壇太郎さんの「新・壇流クッキング」「自由奔放クッキング」、太郎さんの奥さん壇晴子さんの「檀流クッキング入門日記」「わたしの檀流クッキング」などなど。最後の無頼派作家と呼ばれた檀一雄の食道楽を源流にして脈々とファミリーに影響が拡がり、我が家の料理本コーナーの一区画を占めるまでになっている。
 30年ほど前になるが、家族に喜んでもらえる料理作りに目覚め、味覚による父親の地位回復を目指していた頃、奇妙に創作意欲を刺激してくれる読み物として、少しずつ書架に納まり、その後の何回かの書籍処分からも逃れて、今もなお書庫の片隅に残っていたもの。愛着のあるグループなので、今回は壇太郎さんのものを紹介してみたい。
①ページを捲ってみると、実際に作ってみた料理はそれほど多くないことに気がついた。使われている写真も、出来上がった料理を美味しそうにビジュアルに表現するというよりも、いかにも嬉しそうに作っている著者のスナップが主体になっていて、作る喜びというか、料理を趣味とする男のカッコ良さのようなものを全面に押し出している。太郎さんの「新・壇流クッキング」や「自由奔放クッキング」など特にそうで、昔の私は、その編集方針に見事にはまり、壇ファミリーの食べ物エッセイ本をほとんど実践ぬきに楽しませてもらっていた。エッセイをあちらこちらと拾い読みしていると、何故か、美味しいものを作る楽しみ感覚が刺激されて、ついつい何か作ってみたくなるのだった。読者を行為に駆り立てる力のある本はそんなに多くない。

②今改めて読み直してみると、ほとんどの本は材料や調味料の分量が全く示されていなくて、書かれているメニューの正確な再現を意図していない、レシピぬきの、文章主体の食べ物エッセイという性格の本になっている。食べること、料理することを題材にしたその文章は、喚起力の強い骨太の文体で、食材にまつわる知識や思い出を巧みに配置して、気楽に読める好読み物に仕上がっている。恐らく檀一雄を中心とするご一家の雰囲気が、自由で覇気に富み、人間味豊かな生活をなさっていたのだろう、エピソードの一つ一つに味があるのだ。壇一雄の食道楽が、期せずして見事な家庭教育になっていたと言うべきだろうか。多分私は、そんな檀一雄を取り巻く家族団らんの、自由で人間味豊かな生活の質に魅了されていたのだと思う。引用される話題が多彩で目新しく、今読んでも充分に面白い。檀一雄の<火宅>には人間味と奥行きがあったのだろう。

③古い料理エッセイはどれも、レシピなんて無粋だと言わんばかり、美味しさの文章表現にひたすら凝っていて、その料理の再現性など眼中にないというか、再現不可能性の奥に、料理人の真似の出来ない名人ぶりが潜むという感じがしたものだが、今やレシピばやり、95年「壇流エスニック料理」には材料や調味料の分量、手順は番号順に書かれている。そのかわり、食べ物エッセイというスタイルは希薄になり、エッセイ的な文章は少なくなってしまったが、少なくなったとは言え文章は相変わらず面白い。「ビジネスマンの簡単料理」という如何にもハウツウものらしい本もある。イラストと文章が向かい合って見開きになっている本だが、文章がけっこう読ませる。料理本としてよりも読み物として楽しむといい。