武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『ぼくには数字が風景に見える』ダニエル・タメット著/古屋美登里訳(講談社発行2007/6/11)


 古書店の廉価本の中で偶然に手にした本だったが、読み出したら吃驚するような中味に引き込まれ、これまでに見聞きしたり体験したりしたことを思い起こしながら、一気に読んでしまった。改めて巻頭の専門家のコメントを読むと、「ダニエルを知ることで、わたしたちの内なる「小さなレインマン」が目を覚ますかもしれない」とある。この指摘にはまったく同感。この本の読者の中から、一体何人小さなレインマンが目覚めただろうか想像すると嬉しくなる。
 本書の世界を受け入れるためには、序章にあたる「青い9と赤い言葉」と言う奇妙な題が付いた章を少し丁寧に読み込む必要がある。ダニエルくんの説明を引用しよう。

数字を見ると色や形や感情が浮かんでくるぼくの体験を、研究者たちは「共感覚」と呼んでいる。共感覚とは複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいていは文字や数字に色が伴って見える。ところがぼくの場合はちょっと珍しい複雑なタイプで、数字に形や色、質感、動きなどが伴っている。たとえば、1という数宇は明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37はポリッジのようにぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。

 <共感覚>という耳慣れない独特の感受性を身につけた人は、強い連想作用が働き、数字や言葉が単なる数字や言葉としてではなく形や色、質感や運動さえも伴って感じられるらしい。Wikipediaによると

ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。

とある。
 この最初の章の、不思議な共感覚についての具体的な説明は、非常に分かりやすく入りやすい。ダニエルくんが並はずれた知性と表現力を身につけていることが伝わり、以降の展開への巧みな導入となっている。
 続く「幼年時代」「稲妻に打たれて」「学校生活がはじまった」「仲間はずれ」「思春期をむかえて」までが、アスペルガー症候群という対人関係にかかわる社会的感受性に障害をかかえるダニエルくんの自伝的成長記録、この長い苦闘に満ちた展開部は読み応えがあり、身につまされる。育てにくい子を抱えた両親の暖かくて献身的な育児、取り巻く身近な人々の共感的な接し方、苦しみながらも、思いやりのある周囲に見守られながら幼い日々を懸命に生きるダニエルくんの克明な回想が素晴らしい。陰湿な日本社会では、ダニエルくんのような育ち方は出来たかどうか、苦い思いが何度も脳裏をよぎった。人という種の多様性を受け入れる包容力のある家庭という受け皿の大切さを実感した。
 次にくる「リトアニア行きの航空券」「恋に落ちて」の章は、成長の過程を乗り越えて、いよいよ自立した大人になるための、労働と恋愛の試練の章であり、ダニエルくんが、自分にあった人生を獲得する冒険とロマンの物語となっている。読んでいると、よくやった、おめでとうと、拍手声援を送りたくなるような成就感に満ちている。フィクションだったらここまでで、一つの物語が完結するだろうが、ダニエルくんには、その後のさらに切り開いてゆく大人としての人生が続く。
 後の4章「語学の才能」「πのとても大きな一片」「『レインマン』のキム・ピークに会う」「アイスランド語を一週間で」では、延び広がる語学と数学の才能の驚くべき展開が、豪華なショウを見るように展開される。キム・ピークとの出会いの場面は、アスペルガー症候群で対人関係に苦しむはずの二人の火花が飛び散るような灼熱的な出会いが語られ、思わずジーンなった。
 翻訳の日本語がまた素晴らしい。主人公が、障害のために、<慣用句>の理解に苦しむ部分に感心したので引用しよう。

 子どものころ、慣用句にほとほと手を焼いた。人が「加減が悪い」と言ったりすると、ひどく不思議な気持ちがした。加減、つまり足したり引いたりすることに、いいも悪いもないだろうと思ったのだ。ほかにもある。弟が無愛想な態度をとったときぼくの両親は「虫のいどころが悪いんだよ」と言った。「じやあ、虫を別のところに動かせばいいでしょ?」とぼくは言い返したものだ。

 どのような原文だったのだろう。日本語として、分かりすぎるほどよく分かり、あふれ出るユーモア感覚に笑ってしまった。子どもの頃、慣用句の意味が分からず、こんな疑問は、誰でも感じたことがあるはず。前後で語られる<言語共感覚>の説明も非常に興味深い。私の中でもきわめて小さなレインマンが目覚めそう。
 成長の過程で、人間関係で苦しんだことのある人、子育てに苦労している若いお父さんやお母さんに是非本書をお薦めしたい。生きることの素晴らしさをダニエルくんがそっと教えてくれるような気がします。