武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 柴田天馬訳の聊斎志異について(4)

 機会がなくてなかなか入手すること かなわなかった創元社の柴田天馬著『聊斎志異研究』をようやく手にすることができた。古書として可成りの価格がついているので、その内容を少し詳しく紹介しておきたい。
 まず印象的なのは、12ページにわたる「聊斎志異全巻正誤表」、天馬氏の<正誤について>という前書きがついて、2段組の正誤表がズラリと並んでいる。注に、「簡単に判読できる誤植はここでは削除した」とある、単なる誤植とは言えないような、訂正しておかないとまずい訂正箇所も散見する。原典に詳しくないと指摘できそうにない間違いを、たくさん指摘した読者がいたとある、世の中は広い。
 まず、全体の構成をつかめるように目次を引用しよう。

(1章)聊齋志異の書名について
(2章)聊齋志異考/一、著者/二、経歴/三、著書/四、志異の起稿及び脱稿
     五、志異の出版/六、註釈/七、内容/八、志異中の三教
(3章)臙脂判について
(4章)學校と文挙
     學校/一、管學/二、國子監の編制/三、直省學/四、直省聯の編成
      五、入學/六、入學試験/七、試験課目/八、課程/九、在學中の試験 
     十、階級/十一、賞罰/十二、特権/十三、優遇/十四、禁令
     文挙/一、郷試/二、會試/三、殿試/四、朝考
(5章)訳筆余滴
     追憶の人々/チョッピー(天津の人力車)/左筆/譯了まで
(6章)細項目目次
     原本順/訳本順/アルファベット順

 括弧の章分けは、分かりいいように便宜的に私が付した。
 1章が、書名の由来、2章が著者と書誌、3章が難解な物語の一つ「臙脂」の削除部分の訳文、4章は、聊斎志異の時代背景の一つ、清朝の学校制度と文挙制度の解説となっている。
 6章は、原本と訳本の目次および索引である。全10巻全訳聊斎志異の11巻目に相当する。
 特に興味深いのは5章の「訳筆余滴」であり、中でも<訳了まで>題するエッセイには、柴田天馬が聊斎志異に魅せられて、翻訳を始めた経緯と、戦中と敗戦の混乱による苦労、訳本出版のいきさつなどが詳細に語られており、非常に興味深い。
 そして、最後に、当時の著名人の推薦の辞がのっている。その顔ぶれが凄いので名前だけ紹介しよう。日夏耿之介佐藤春夫大佛次郎小林秀雄林房雄丹羽文雄奥野信太郎高田保、瀧川政次郎、以上のメンバーである。

 明治生まれの古典中国文学の碩学目加田誠氏の著作集を読んでいたら、第8巻の随筆集の中に、柴田天馬氏との因縁浅からぬ印象的な短文「柴田天馬氏訳 聯斎志異」を見つけたので引用しよう。

 高校三年の時であった。その前二ヵ年病気で休学し、再び学校に戻っては来たものの、友人はみな大学に進んで、自分ひとり取残され、からだに自信はなし、将来どういう道に進もうかと思いわずらっていたある日のこと、古本屋で一冊の珍しい本を見つけた。「和訳聯斎志異、柴田天馬訳」。表紙は白黒で、北斗七星が空にかかった図だった。
 この風変りな中国の小説を買って帰って読んで、不思議な魅力にとりつかれた。荒唐無稽な怪異談ながら、なんとなく薄明の中にただよう見果てぬ夢のような気のするところがあって、私はなんども繰返し読んだ。ことにむずかしい原文の漢字をそのまま残して、傍らにくだけた訳語をルビにふった、凝りに凝った訳文は巧妙をきわめて、よく原文のこってりした、いささかエロティックな気分を遣憾なくつたえていた。私はやがて本郷の文求堂で、石印の『評注聯斎志異』を買って文字を拾って、少しずつ読んで行った。今思うと私が大学で支那文学科などを選ぶようになったのも、これがひとつのきっかけであったとも言える。その後、第一書房から柴田訳『聯斎志異』第一巻が出たが、たちまち発売禁止になってしまった。
聊斎志異とその著者の説明を略) 
 昭和十一年秋、北京から九州への帰途、大連に立ち寄った。大連にはその聯斎の訳者柴田天馬という人がいる。聯斎の訳はもともと満鉄の読書会雑誌に連載されたものだという。私はこの訳者は、満州のどこか裏町に住む、がんこな老人だろうと空想していた。ところが大連の図書館長さんに案内されて、大和ホテルの立派な食堂にいたとき、一人の瀟洒たる老紳士がはいって来た。それが毎日ここに昼飯をたべに来る柴田氏だときいて、私は全く意外であった。それから柴田さんの、丘の上の洋館に迎えられて、聊斎志異関係の書画で飾った客間で、いろいろ翻訳の苦心談などうかがった。かねて私の敬慕の情をかなえることができたのである。
(余談を略) 
 終戦後、創元社から全訳十巻本が出たのは何よりうれしかった。柴田先生が訳筆を執り始められて五十年ときく。先生にはその後、山口県岩国市−たまたま私の郷里−の仮りのお住居でお目にかかった。真夏であったが、清躯、鶴の如きお姿であった。今は東京で、今年も年賀状をいただいたから、お元気だと思う。
 聯斎の訳は他の人も試みており、最近では平凡社の中国古典全集の中に、新しい人たちの全訳が出て、従来の誤読とおぼしきところも訂正されて結構だが、私にはやはりあの柴田訳の特色のある調子がたのしく、ことに最初によんだ玄文社刊の、今は失った一冊の本がなつかしまれる。
(この小文が新聞に掲載されて一週間目に柴田先生の逝去を知った。危篤の枕辺で老夫人がこの文章を読まれたそうだが、先生はただ軽くうなづかれ、分ったかどうか、わからなかった由である。私はちょうどそのとき上京していたので、初めてお宅を探しあてて祭壇を拝した。)

 休学中だった目加田氏の青年期の鬱屈に、柴田訳聊斎志異の世界がどのように浸透したか、想像すると思わず胸が痛くなる。人生を方向づける掛け替えのない遭遇というものは確かにある、良いエピソードである。