武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『加藤周一著作集』加藤周一著/平凡社/1978.10〜1980.5


《入手した著作集のこと》

 長い間、私は加藤周一の良い読者ではなかった。現在もそうである。ベストセラーになった「羊の歌」と「日本文学史序説」を手にしただけのある程度の距離を置いた通りすがりの読者だった。ところが最近、再び日本文学史序説を拾い読みして、その生涯の全体像に興味がわいてきて、現在入手できる最も全集に近い作品集として、全15巻の著作集を購入することにした。
 このところ古い全集本の驚くような値下がりが続いているが、私が入手した加藤周一著作集は、14巻目が欠け月報も失われた書き込みありのC級品ながら何と2600円の低価格だった。ところがダンボール箱に丁寧に詰め込まれた包装を解いてページを繰り始めて吃驚、それは並みの古本ではなかった。
 14巻全巻に相当の使用感があり、所有者によってよく読み込まれた本という第一印象だったが、さらにページを繰ってゆくに従い、ほぼ全ページが詳細かつ丁寧に読まれており、どの巻も最低で3回、多いのは5回も再読されていることが書き込みのメモから分かってきた。普通は読み飛ばしてしまう註や追記の細部にまで書き込みがなされており、文字通り舐めるようにして読み込まれていたことが分かった。これは並みの読者ではない。
 前の所有者にとても興味がわいてきた。これほど愛読していた著作集を手放したということは、推測だが、亡くなられたかどうかして再び読むことがかなわなくなり遺族の方が処分されたのではないか。さらに憶測を重ねて、欠けている14巻目の羊の歌は、その読者とともに永遠の旅路に旅立ったのかもしれないなどと空想の羽を広げてみたくなった。何かの研究者だろうか市井の一般読者だろうか。だが、これ以上の詮索は手放した元所有者に対して無礼だろう。メモの筆跡なども公表すべきではないだろう。
 一般に古書としての価値は、書き込みなどがあると、ぐんと値打ちが下がってしまうので、私自身はある時期からそれまで捨てていた箱や帯、カバーなどの付属品を大事にとっておき、書き込みはしなくなったけれど、書き込みのある古書は嫌いではない。書き込みに愛着があり、処分しないで所蔵し続けている本も少なくない。
 発禁になった稲葉明雄訳キャンディの検定のチェックが赤鉛筆で書き込んである検定者のものとおぼしき検定箇所線引き本。フランスのピカレスク小説の異才ジョゼ・ジョバンニのリアルな脱獄小説「穴」に、受刑者らしき人の苦悩の書き込みがあるメモ書き古本、中華料理のバイブルと呼ばれる「随園食単」中山時子訳柴田書店版に中華の料理人と思われる人のメモや書き込みが随所にある汚れた裸本、石川淳から内山賢次に寄贈された限定版石川淳全集の限定除外本などなど。すべて驚異的に安く手に入れた後で判明したものばかり。
 話を戻そう、古来、読書法の一つとして、同じ本を繰り返し読むことの功徳についてよく語られてきたけれど、15巻の膨大な選集を繰り返し読んでこられた読み手がいたことは覚えておいていいことのように思われる。林達夫の後を引き継いで平凡社世界大百科事典の編集長をつとめた典型的な知識人、やや気難しそうな今はなき加藤周一翁もこういう愛読者に恵まれていたことを知ったら、さぞ喜んだに違いあるまい。
 これまで距離を置いてきた感のある加藤周一にしばらくこの線引きのある選集を介して近づいてみるのも面白いのではないか、老後の愉しみとしてこれも悪くないのではと思えてきた。一面識もない遥かなるひとりの加藤周一の愛読者に敬意を抱き、この短文を書いた。