武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『クレーの絵本』パウル・クレー+谷川俊太郎(講談社)

toumeioj32005-07-12

 素晴らしい絵本にして画集、そして詩集でもある。
 この本を手にした回数は、数え切れない。私の蔵書の中で最も多く眺めた一冊。薄い本なので何ページかなと思ってページを見ようとしたら何とページがない。代わりにクレーの絵の表題の一部に紛れ込んで絵の番号があった。40番まで。ということは、クレーの絵が40点載っている画集になっているということ。
 そして、そのなかの12点の絵に谷川俊太郎の詩が添えられている。一編は、絵にではなくてクレー自身にささげられたもの。私はクレーの絵が好きで谷川俊太郎の詩が好きで、その両方が楽しめるので何倍もこの本が好きかというとチト違う。引かれる理由がもう少し奥深い。
 この本の中の谷川俊太郎詩編には透明ながら濃厚な「死と子ども」を感じる。無関係のようだがクレーの絵からも無邪気に遊び戯れる子どもの感覚と、どこかで一度死んで蘇ってきたような、この世のしがらみや重さを脱ぎ捨てたような透明な色彩感覚を感じる。我ながら、訳の分からないことをいっているような気もするが、正直、そんな気がしてしかたがない。この本には死の妙薬が配合されていて、その奇妙な味が私を引きつけてはなさない。
 この本の中の一番気に入っている「死と炎」と言う詩を引用しよう。クレーの絵も赤味のある背景から不気味な骸骨のような人の顔のような記号化されたイメージが浮かび上がる。絵全体に言い知れぬ不気味さが漂うただならぬ気配のする絵。一目でクレーとわかる。
 それにしても、何と言う恐ろしい詩だろう。ジョルジュ・バタイユ言うところの「生命の不連続性、理解しがたい出来事の中で孤独に死んでゆく個体」としての人間を、ここまでそのものずばり表現しえた人はそんなにいないのではないか。虚無の只中に無防備に放置された人間の姿を見事に描き出していて、いっそ清々しく晴々としてしまう。

かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしやべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえてゆくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに

「かわりにしんでくれるひとがいないので/わたしはじぶんでしなねばならない」このように言われてしまうとその通りなのだが、私は言葉を失う。心の奥でしんとした沈黙が目覚めるような感じがある。人ごとみたいな自分の死。
「だれのほねでもない/わたしはわたしのほねになる」確かにその通りだが、このことを事実として、何がしかの真実として納得し受け入れるには少し心の準備が要る。全部ひらがなで、丸みを帯びた言葉で表現されているので意味の過酷さが漂白されて、子守唄を聞くようにすんなりとこちらに染み込んできてしまう。漢字で書かれるとこれはしんどい。
「かなしみ/かわのながれ/ひとびとのおしやべり/あさつゆにぬれたくものす/そのどれひとつとして/わたしはたずさえてゆくことができない」このようにたたみかけられると、人生の束の間の愛惜すべき情景のすべてをくくりこまれ、背後にぽんと投げ出されるような感じがする。「たずさえてゆく」この一言が切り取る、個として生命の深淵に隔てられた絶望的な孤独感。
「せめてすきなうただけは/きこえていてはくれぬだろうか/わたしのほねのみみに」この最後の赤ん坊が駄々をこねる時のような甘え方はどうだろう。ダメなことは百も承知、あえてこう言ってみたことで、このフレーズを読んで私の気持ちはスッと少し軽くなる。見事な締めくくりとしか言いようがない。読後に渺々とした余韻を残して密かに音のしない弔いの鐘が鳴る。
 他にも、素晴らしい詩が何篇もある。クレーの絵と交互に眺めることで、不思議な味わい方が出来る仕掛けになっている。手にとってみてもらいたい。気に入ったら手に入れて自分のものにしてほしい一冊。