武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 現代の詩人「川崎洋」(中央公論社)日本語を駆使して幅広いとしか言いようのない沢山の仕事をやり遂げて昨年10月21日に鬼籍に入られた詩人を遅まきながら追悼

toumeioj32005-07-13

 昨日、ユーモア溢れる川崎洋さんの監修の2冊の本を話題にしていて、知り合いから昨年になくなったことを指摘され、愕然となった。まったく気づかなかった。ショックだった。
 日本語の使い方が凄くていねいで、感受性が鋭いのに受け止め方がやさしく、若い頃から、物事をどのように感じ受け止めたらいいか、ずっと最良のお手本と思って敬愛してきた人だった。気を抜くとフッと消えてしまいそうなかすかな印象をくっきりと鮮明に表現することに長けた人だった。物事をやさしく分かりやすく書きながら、内容を高いレベルに維持できる言葉の達人だった。
 著書を調べると、本当に多岐にわたる著作活動をされていた方と改めて感心した。川崎洋さんのお仕事の中心にあったのは、やはり詩人の心だったのではないか。詩作を通して磨きぬかれた感性と言葉の技術が、川崎洋の仕事の主調低音になっていたと思う。言葉を自由自在にあつかい、言葉を使ってする楽しい言葉遊びがわざとらしくなく出来るうらやましい人だった。
 昭和30年に発行された第1詩集『はくちょう』の中の大好きな1篇[朝]を引用してみよう。

  朝

朝の
光の中を
駈けてくる少女
やわらかい髪の毛は
その日光に溶けてしまって
まぶしい


手から
スカートから 靴から 身体から
みんな
日光に溶けてしまって
透けて
少女だけが
駈けてくる


日光は
朝の森に入る
少女は緑色になる
外国で
朝 ふいに母国語をきいたように
梢が ざわめく


少女は
朝の牧場に出る
くりーむ色の馬が連れだって
露をおいた草をたべている
草の緑は
くりーむ色の馬の腹の中で
どのように変化するのだろう

少女は
考えながら


果樹園にくる
林檎畑の林檎達が
朝の光の中で
実ろうとしてしる
白い部屋には
香りが
ガスのように溢れ溜まる
少女は
匂い で 一杯になる
何時からともしれぬ
何処からともしれぬ
赤い色づけ
その赤い皮膚に
弾力が具わってくる
光の中で
はじけそうになるのを耐えている
林檎畑の林檎達


少女は
駈けつづける


氷が割れる 風が生まれる
栗鼠が眼覚める


少女は
僕が眠っている部屋に入ってくる
朝の光に
僕の心はタオルの様に
さまざまな色に染め分けられてゆく
縞になったりして
夢に
かすかにずれている
僕と少女
泉が湧く音かしら
時間がすぎていく気配かしら


夢を
かすかに 越えている
僕と少女


少女は次第にうすれていき
僕は段々満ちてきて
そして
やがて


太陽

※何と爽やかな言葉遣いとイメージなんだろう。少女のイメージを作り出している、あるいは少女を夢見ている主体は少年、爽やかに仮構された少年僕の夢の世界。少女との間の透明な朝の時間は淡い夢のまどろみ。これは初恋を主題にした詩編だろう。少年、僕の初恋をキーワードにして読み解くと分かってくる。朝の光の中を駆けて来る少女は、何故、日光に溶けてしまうのか。少年が夢想する少女は、実体をともなわないものだからだ。その印象が自分の方に駆けて来るのもよく分かる。自分に向かって駆けて来てほしいのだ。思い通りにならないがゆえに軽やかで自由な少女。朝の森。朝の牧場。朝の果樹園。少女のイメージが自由気ままに朝の世界を駆け巡る様子がなんとも爽やか。男にもこんな夢をみる時代があるのは確か。仮構された僕の眼差しが少女に振り回される。ほぼ完璧な初恋の形象化といえるだろう。
 始まる目覚めの時間、目覚めて行くときの気配がなんとも素晴らしくとらえられている。これまでの夢の世界の少女が消えるとともに、意識が少年の中から浮かび上がってくる。爽やかに始まる少年の一日をこんなに鮮明に描き出した詩を他に知らない。遠い昔のささやかな初恋がなつかしくなった。私にも、かつてこんな時代があった。沢山の素晴らしい作品を残してくださった詩人のご冥福を祈りたい、遅ればせながら。