武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 ボーヴォワールによってまとめられたサルトル晩年10年間の記録 ゆっくりと老い死に行く20世紀を代表する知性の最後の10年間の姿が静に暖かく甦ってくる

toumeioj32005-08-18

 この本は、2部に分かれている。前半は、ボーヴォワールによって回想されたサルトルが死ぬまでの11年間の回想記、70年から80年まで。後半は、74年の夏に収録されたボーヴォワールによるサルトルへの長いインタヴューの記録。
 まず前半の生涯の伴侶ボーヴォワールによる回想だが、70年に既に2度目の発作が起きたと書いているので、サルトルの健康状態は下降線に入っていたのだろう。随所に健康状態の記述があり(つまり健康ではないと言うこと)、軽い感じで死ぬことについての発言が拾いあげられている。死ぬ前の10年間が、このように克明にしかも冷静に(客観的ではない)記述された例をあまりしらない。とにかく、事故ではなく老齢化と病気の進行により、11年間サルトルがいかにして生きて死んだかと言う記録なので、非常に興味深く読める。フローベール論を書いてまだ元気だっのに死の影が忍び寄りつつあるところ、回想とはいえなかなか怖い。1980年4月15日の朝にサルトルが亡くなる、この前後の文章が哀切を極める。誰にも分け隔てすることなく、無慈悲にやってくる死の動かしがたい必然性にシュンとなる。サルトルの晩年に関する一級の資料でもある。
 後半のインタヴューも、常に身近にいた伴侶による問いかけに対する飾らない、気取らない回答なので、サルトルの作品誕生の経緯や彼の様々な発言や行動の経緯について、本人自身による振り返りが淡々と語られ、興味深い。そのほか、サルトルの生活心情や異性に対する考え方など、面白い発言が随所に出てくる。
 そして、何よりもこちらの心に迫ってくるのが、ボーヴォワールサルトルの死に対する気持ちの総括。「はじめに」と題された前書き1ページに込められた彼女の思いを読むと、最愛の人を失った彼女の悲しみに息を呑む思いがする。哀切極まりない文章。全文引用する。じっくりと読んでみて。涙なしに読めないと思うが・・・。

 これは私の本のなかで、印刷される前にあなたが読まなかった最初の---おそらく唯一の---本である。この本は全巻ことごとくあなたに捧げられていて、そしてあなたにはかかわりがない。
 私たちが若かったころ、激しい議論の末に、二人のどちらかが鮮かに相手を論破すると、よくこう言ったものだ、「あなたなんか棺桶入りだ!」と。あなたは棺桶に入っている。もうそこから出ることはない。そして私はあなたとそこでふたたびいっしょになることはない。たとえ私があなたと並んで埋葬されても、あなたのなきがらと私のむくろのあいだに、懸け橋はない。
 私が使っているこの「あなた」は囮、修辞のまやかしだ。それは誰にも間こえていない。私は誰にも話しかけていない。実際は、私が語りかけているのはサルトルの友である。彼の最後の何年かをもっとよく知りたいと思っている人びとである。その年月を私は自分が生きたとおりに語った。証人は証言の一部をなすから、私自身のことも少し語ったが、しかし最小限にとどめた。なぜなら、まず第一にそれが私の主題ではないからだし、さらにまた、あのことをどう受けとめているかと私に問うた友人たちへの答えに記したように、それは「言いえない、書きえない、考えられえない、ただ生きられている、それだけ」だからである。
 この記録は、私がこの十年間つけた日記に主としてもとづいている。それと、私が集めた数多くの証言とに。書いた物を通じて、また直接語ることによって、私がサルトルの最期を跡づけるのを助けてくれたすべての人に感謝する。