『楢山節考』深沢七郎著(新潮文庫)
この小説をはじめて読んだ時、物語のどこを探しても作者の視点と言うか、作者の物の見方を代表している登場人物が見当たらないことに、戸惑ったことを覚えている。若い頃は作者の自己主張の強いものを好んで読んでいて、作者の分身のような視点人物が不在の読みものもあることを教えられたような気がした。
最初は寓話か神話のように、のめり込んだりせずに文章からある程度距離をとって読めばいいのかと思って読んでいた。古老から民話や昔話を聴くようにして文章の語りに耳を傾けるようにして読んだ。題名から考えて、楢山節考とあるので、<楢山節>という盆踊り唄と<つんぼゆすりの唄>という二つの唄にまつわる歌物語としても読んでみた。多分、物語の枠組みとしては唄の物語なのだろうが、だからといって何が分かったわけでもなかった。主人公の生き方と最後の情景の稀に見る美しさが印象に強く残った。
今は、この物語の中心人物として、この物語の中で一種異様な輝きと存在感を漂わせている「おりん」さんの老いの受容の物語として受け止めることにしている。言葉を代えて言えば、「おりん」さんの老齢化にたいする最適化の物語として読むと一番よく分かった気になれる。題材そのものを大事にして、老いのドラマとしてとらえたらどうかと言うそれだけのことなのだけれど。では物語の分析に進もう。
1、「おりん」さんを囲む家族構成、「おりん」(69歳)、その亭主(20年も前に死亡)、一人息子の「辰平」、辰平の嫁昨年死亡、孫が4人、けさ吉(16歳)ほか男3人、末っ子の女の子(3歳)、以上の6人暮らし。生計の立て方は、かつての山間僻地によくあるようなほぼ自給自足の農林業だろう。貧しい山村で、人として生き延びてゆける最低限の単位としてのぎりぎりの家族構成として生存しているよう。
2、村の構成、「おりん」さんの生きている状況、22軒の山奥の村、隣の家は「銭屋」、その隣は「雨屋」、その隣が「榧の木」、そのほかに「松やん」の生まれた「池の前」、おりんさんの家は「根っこ」と呼ばれているように、この村には苗字はない。封建的な家父長制すら成立していない原始共同体のような村が、おりんさんが暮らしている村。一つ屋根の下に一緒に暮らしていると言う事実そのものが、生活の単位としてみなされていたそんな時代が、そんな地域があったのだ。山村の古い過酷な時代の原風景と言えばいいか。
3、極度の貧困の中で暮らしているので、生活を維持していく上でのルール、掟、あるいは倫理モラルは、いたって単純。その一、盗む事なかれ、物語のなかで芋を盗んだ「雨屋」の一家12人対する根絶やしの厳罰のエピソードが凄まじい。その二、産み過ぎる事なかれ、極度に食料が不足しているための産児規制圧力。その三、生き過ぎる事なかれ、お山参りの棄老習慣。食料不足が生んだこれらの掟の厳しいこと、おきて破りはすぐに死をもって償うと言う過酷なペナルティーを伴っている。この楢山節考という物語は、そこのところを何の文化的な装飾もなく、直裁にむき出しのまま、水で割ったりしない濃いアルコール飲料のように、ストレートに差し出してくるところが素晴らしい。だから、この物語には人を酔わせる力がある(笑)。
4、「おりん」さんの人生、<向う村>から50年も前に嫁にきて、20年前に亭主をなくし、一人息子と4人の孫に囲まれて、何一つ健康に不安なく暮らす69歳の老婆。健康さのシンボルとして鬼のようにしっかりした歯が出てくるが、この象徴性は見事、おりんさんは、この健康すぎる歯のことを恥じて、石臼の角に歯をぶつけやっとの思いで2本を欠く。献身的な息子の愛情に支えられ、おりんさんのファミリーの結束は固いように見える。
5、おりんさんのファミリーの世代交代、一人息子に<向う村>から祭りの日におりんさんの希望通り「玉やん」という後家が後妻としてくる。この玉やん、気立てがよく働き者、おりんさんの生存のポストが確実に狭まってしまう。そして、孫の「けさ吉」の婚前交渉による「松やん」の登場、四世代家族を恥とする貧困の人員制限圧力は、祭りを迎えて一気に高まってくる。この松やんだけが、読んでいておりんさんファミリーに馴染まない情け知らずな性格の悪さを子守唄をとおして表現している。乳幼児を過酷にあつかう「つんぼゆすり唄」は、物語にあるように「盆踊り唄とつんぼゆすり唄とは元来は節も違うのであったが同じ節で歌われた。どちらも楢山の唄である。」とあるように、楢山の貧困と一体化した唄なのだ。今やおりんさんファミリーには、盆踊り唄とつんぼゆすり唄を通して、人減らし圧力がのしかかりはじめる。
6、孫の「けさ吉」のおりんさんの歯にたいする振る舞いと、その婚前交渉相手の「松やん」の役立たずぶりと「鬼ゆすり」とよばれる子守唄の邪悪さは、明確な若い世代からの長生きしている「おりん」さんへの棄老圧力となって押し寄せてくる。おりんさんとこの若い二人との間には、もはや暖かい心の通い合いは全く感じられず、不気味な世代ギャップがお互いを隔てている。これは、おりんさんが一家の中心になって築いてきたファミリーの結束が新しい世代の登場により押しやられ、おりんさんを身内の圏外へ押しやろうし始めたことを象徴している。老いがもたらす不可避の掟が、かくも見事に活写された物語はあまりないのではないか。かつて正宗白鳥が楢山節考を読んで「私はこの物語を面白づくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」と言ったそうだが、分かる気がする。「けさ吉」と「松やん」の生き生きとした性格の悪さ、その描写の的確さ、気分が悪くなるほどに見事。世代間の葛藤の見事なドラマ化といえる。深沢七郎の人物造形、見事というしかない。
7、そして、この物語のクライマックスとしての楢山参り。おりんさんの楢山参りは、若い世代に強いられた外面的なものではなく、以前からしっかりと自分の中に根を下ろし、準備万端を自ら整えて心待ちにしていた決断だというのが凄い。この意思決定が微動だにせず着実にストーリーが進行するので、台頭する若い世代とのみじめな軋轢もなく、物語は残酷に美しく最後に向かって動いて行く。おりんさんの見事な意思決定に飲み込まれるように「けさ吉」の唄が上手くなり、「松やん」のお腹はますます大きくなり臨月のようになる。
楢山参りの前の晩、かつて楢山へ行ったことのある人達を招き、振舞い酒を出し、山へ行く仁義のような作法の教示がある。まるで、唄か詩のフレーズのように聞こえるので、少し整理して引用してみよう。
お山まいりはつろうござんすが御苦労さんでござんす
お山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
一つ、お山へ行ったら物を云わぬことお山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
一つ、家を出るときは誰にも見られないように出ることお山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
一つ、山から帰るときは必ずうしろをふり向かぬこと
この作法に続くのが楢山へ行く道順、最後に振舞い酒の暗い宴が解散した後に伝えられる「嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」という謎の台詞、最後まで読むとこの意味が分かる。それにしても日本書紀やギリシャ神話を連想させる神話的なフレーズのなんと不気味なことはどうだろう。
この楢山参りの挿話として出てくる「銭屋の又やん」のエピソードのなんと残酷で哀れなこと、老化という事実の進行に最適化できなかったかつての老人達の象徴としても読んでも思わず目を背けたくなる話。老いの受容と最適化は、昔も今も生易しいことでは達成できないことの一例となるであろうか、しかし、生きていれば誰にも老いは避けようもなくやってくる。老いの問題をかくも見事にドラマ化した物語がほかにあるだろうか。
そして、最後の楢山への道行き、克明に描写された厳しい自然のなんと美しいこと、冥途の使者のような不気味な烏の描写、息子の辰平の暖かい心遣い、残酷なまでに美しい雪降りの別れの情景、一人のかいがいしく気丈にいきたおりんさんの最後を飾る生きながらの葬儀、涙なしに読めないとする人が多いのも頷ける。素晴らしいラストシーンと言えよう。
楢山参りから帰った辰平が見たものは、新世代の子ども達の唄と松やんとけさ吉の日常的な姿、最後の最後までこの物語は見事に終わる。ズシリとした読後感を残す短編小説だと言える。
最後に、この物語を背後から支える深沢七郎作詞作曲の楢山節の歌詞を引用して終わりにしよう。この歌詞がこの物語の主調低音となって、物語の中をずっと流れていた。こうゆう物語づくりこそが、この物語の奇跡的な豊かさを導き出したのかもしれない。
楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く塩屋のおとりさん運が良い
山へ行く日にゃ雪が降るねっこのおばやん納戸の隅で
鬼の歯を三十三本揃えたかやの木ぎんやんひきずり女
せがれ孫からねずみっ子抱いた年に一度のお山のまつり
ねじりはちまきでまんま食べろ夏はいやだよ道が悪い
むかでながむし山かがしなんぼ寒いとって綿入れを
山へ行くにゃ着せられぬ三十すぎてもおそくはねえぞ
一人ふえれば倍になる豆を食うなら ひやかして
お父っちゃんは盲で目が見えぬお父っちゃんは出て見ろ枯木ゃ茂る
行かざなるまい、しょこしょって山が焼けるぞ 枯木ゃ茂る
行かざなるまい、しょこしょってつんぼゆすりでゆすられて
縄も切れるし縁も切れるお姥捨てるか裏山へ
裏じゃ蟹でも這って来る這って来たとて戸で入れぬ
蟹は夜泣くとりじゃない
若い人も一度は手に取って読んでみて欲しい。
8、この作品の批評では、作品世界が完結した小宇宙を形成していることを重く見る見方があるらしい。確かに、外界に出て行く人も外界から入ってくる人も描かれていない。物資の交流すら描かれていない。たった一箇所、銭屋の誰かがかつて越後に行ってきたという話が出てくるのみ、しかもそのわずかな外界とのつながりは完全に無視された形。従ってこの村はほぼ完全な自給自足の小宇宙といえる。しかし、短編の作品世界では、ありうること、自給自足の完結した世界を構築することが作者の意図とは思えない。