武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『美しい日々』 片山健画集 (幻燈社)

 初めにお断りしておくが、この画集は、多分現在は入手困難、昭和44年に1000部限定で出版されたもので、私が所有しているのは323番。古書店を検索してもかなり高い値段が付いている。当時はあまり売れなかったらしく、大きい書店ではよく見かけたものだったけれど。

 内容は、微妙に性の感覚に目覚めかけた頃の、繊細で敏感で仄かな少年期のエロチシズムが主題。記憶の奥を探ればどなたでも覚えがあるはずの訳の分からないもやもやした疼くような感覚。安定した至福の少年期が揺らぎ、かすかに罪の感覚あるいは微妙な禁忌の雰囲気をまとって感受されるはじめる発芽状態の性感覚。児童期の無垢の壁に走る亀裂とでも言おうか、そんな微かだが鋭く生々しい少年少女のエロスを掘り起こし、鮮明な画像に定着したのがこの画集。見てはいけないものを覗き込むような罪の意識なしにはページをめくれない。
 従って、この画集を紹介したことがあるのは、ものが分かっていると思われる小数の親しい人だけ。真面目なだけの堅物にはお見せするのもはばかられる雰囲気がある。
 <濡れたスクール水着の少年少女、虚ろな視線で、互いに衝突していて、おしっこが漏れており、ひとり裸の少年がいて、雨が降っている、背景は古いプール、そのポジとネガ>
 <木造校舎の便所における、裸の少年と少女、マントのように新聞紙を身にまとい、怪しげな姿態で静止している、これらの学校のトイレシーン>
 思えば、あの時期の肛門と性器の間で揺れ動く、何ともこそばゆくてもどかしい芽生えたばかりのエロチシズムの新芽とでも言おうか、片山健は大胆に執拗にモノクロの鉛筆画で表出している。
 <トイレとプールを導入にして、トイレから見えるプールから、校庭の休み時間、校舎の片隅へとイメージは広がり、大人のいない少年少女だけの恥ずかしくもあられな世界が幻想的に展開する、誰もが垣間見て忘れてしまった密やかな性の幻影が静かに緻密に繰り広げられる>
 <少年少女のスカトロジーに残酷さが加わり、やがて幼く勃起した少年の性器が描かれ始めて、この画集に終わりが来る、これほど精緻に描かれた少年期のエロチシズムをほかに見たことがない>
 今回注意してみていたら、1場面にだけ大人の手だけが登場して、少年の性器を抑えているシーンがあることに気が付いた。
 画集なので内容を紹介するのに苦慮したが、久しぶりにお気に入りの画集を眺めて、何度目かの恍惚と戦慄を味わい、楽しい思いをした。片山健は、この処女画集を皮切りに、より過激に刺激的な画業を追求してゆくようになるが、私はその鉛筆画をこよなく愛好する者。
 最後に、この画集の冒頭に置かれている詩のような文を引用しておこう。多分、この画集の内容を、もっとも適切に表現する文章だろう。

おまえったら
ポケットに手をつっこんでばかりいてさ
おまえのポケットの中に
いったい何をかくしている


こうしてぼくはとりだした
ポケットの中の暗がり ほこりの日々
古いアルバム ひらいて見せた
美しい日々 その他の日々