武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 笹原常与第2詩集「井戸」とロダン

 この詩集の表紙に使われているのは、ロダンの彫刻「三人のファウナ」の切り抜き画像。この作品は、国立西洋美術館が所蔵している名品の一つ。ファウナとは、森の妖精のこと、無邪気に踊る三人の若い裸の娘像。体重を失ったかのように軽々として三人の体がふれあった奇跡の一瞬がそのまま固まってしまったかのよう、儚い若さの華やぎの刹那をとらえた永遠の形象。サイズは、24×30 ×15 と机の片隅に乗るほどに小さなブロンズ像。

 気になったのは、笹原さんがこの詩集の表紙のデザインに、どうしてこの「三人のファウナ」の画像を使ったのかということ。きわめてシンプルに表紙を飾るモノクロの「三人のファウナ」、視覚的な印象が鮮明なだけに、気になって仕方がなかった。そこで、<ロダン><彫刻>、ロダンから表現者として多くを吸収して豊かに詩を開花させた<リルケ>などをキーワードにして、詩集「井戸」を読み返してみようという気になった。

 リルケを連想したのには、わけがある。リルケはパリに出てきて間もない若い頃、ロダンに傾倒し、ロダンに取材し、ロダンに学び、物言わぬロダンの作品を言語化する過程を通して、自分の芸術観と詩法を鍛え上げた詩人。以前から、笹原さんの詩表現に、リルケの表現から受ける透明な形而上学的表現法に似たものをそれとなく感じていたことからの連想。たまたま、ロダンを媒介にすると、リルケと笹原さんがうまく結びつくような気がして、リルケを引っ張り出してきた。しかし、「井戸」という詩集には、一言もロダンリルケの言葉は使われてはいない。表紙にロダンの作品の写真を見つけて、強く、連想を誘われたからにすぎない。
 さて、作品を読み返してゆくと、<彫刻>もしくは<ロダン作品>に関係すると思われる詩篇が、何点も見つかる。
 冒頭を飾る「手」と題された、不思議に静かな悲しみを誘われる詩篇ロダンがシリーズで制作していた「手」のいずれかに触発された作品と言ってもおかしくはない。描かれている手が、身動きできない様子や「手自身の重み」から、そんな連想がわいてくる。
 「カレーの市民」、これはよく知られているロダンの傑作、有名なカレーの市民の英雄的なエピソードが主題ではなく、彫刻作品「カレーの市民」を主題にした作品、しかも、作品中に「歩む男」「考える人」などロダンの他の作品も出てくる。有名な台座をめぐるエピソードも使われており、この詩篇はに滲むロダンの影は極めて濃い。
 つぎの「歩く人」も、記述は内面化され、直接的にはロダンの作品を連想しにくいが、人の歩く姿を追求した、ロダンの形象が、淡く背景に見え隠れする。頭部をなくしたとういう表現、「鼻のつぶれた男」というフレーズなどから推測すると、ロダンの作品に触発された詩篇と考えて間違いあるまい。
 「埋められた顔」「脚の歌」など、ほかにも彫塑作品を思い浮かべてしまう作品群がいくつかあるが、これらはロダンから学んだ方法の延長上にある作品かもしれない。最後に置かれた「カリュアティデ」、古代ギリシャ建築で、装飾を兼ねた女性の彫像の石柱を主題にした作品。いつ見てもあの女性人柱をみると言葉を失うが、詩集の最後を飾る見事な詩篇ロダンの彫刻作品にも「カリアティード」と名付けられた作品があるが笹原さんが取り上げたものではなさそう。石の重みで体がねじ曲がった息苦しくなるようなロダンの表現とは趣を異にする。

 以上、かなり明確に<ロダン>や<彫刻>を連想する作品を取り上げてみた。印象は淡いが、<ロダン>や<彫刻>を連想する作品は確かに少なくない。詩集全体から受ける印象にもつながるが、笹原さんは、動いているものを動いているままに捉えるよりも、決定的な一瞬の静止の相をとらえ、物事の動きの背後に潜む、変化の核心を捉えようと、そのような方法を自分の詩表現のあり方に採用しようとしていたのではないか。
 リルケロダンの作品に学び、ロダンのもとで住み込みで秘書のような務めを引き受けたりしながら「新詩集」の詩作に全力を注いでいた時、透き通った鋭利で明晰な言葉を通して物事の深奥にひそむ本質を掴み取ろうとしたように、笹原さんもまたある時期、ロダンを通して自らの詩法を研ぎあげ磨き上げていったのではないか。リルケロダン論を媒介にしたリルケの詩法への接近、笹原さん独自の言葉によるロダン作品への接近、そして独自の詩によるロダンの作品論。そんなユニークな試みが、笹原さんの個性的な詩法の確立となってこの詩集の世界を作り出したような気がする。ロダンの作品を表紙に引用した理由は、この詩集成立にはそんな背景があったからではないだろうか。 
 <ロダン>の躍動的で確固とした物事の把握、がっしりといつまでも動かない動く必要のない物言わぬ<彫刻>表現、そこから多くを学び静かで透徹した詩法を確立した<リルケ>、自らの詩法を確立しつつあった笹原さんの第2詩集『井戸』に、これらの3つのキーワードを連想したのは、自然なことだったような気がしてならない。「町のノート」に見られた、手さぐりするような戸惑いのある表現は払しょくされ、『井戸』における表現は透明感を増し、詩の世界は格段に深くなっている。「町のノート」に見られた身近な暮らしの発見「ガード」「井戸」「電話ボックス」「地図」などの、町の風景を主題にした詩篇はさらに豊かさを増し、いずれも名品と呼びたくなるような見事な出来栄えを見せている。身近なもの、直ぐそばにある日常的の物事を、深々と優しく新鮮にとらえ返す詩法は、派手に輝くものではないが、渋く落ち着いていつまでも褪せずに静かな輝きを放ち続けている。
 機会があったらこの「井戸」という詩集、手にとって見られるようお勧めする。時代を越えて輝きを失わない、深みのある表現に随所で出会えるはず。