武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『サンチョ・パンサの行方−私の愛した詩人たちの思い出』 小柳玲子著(発行詩学社)

 詩人石原吉郎の晩年の消息が知りたくて本書を手にした。題名の「サンチョ・パンサの行方」は、石原吉郎の第一詩集<サンチョ・パンサの帰郷>にちなんで付けられただけあって、本書の約半分が石原吉郎の思い出をめぐるエッセイ。著者が直接に見聞きした範囲にしぼって描かれた石原の生きた人物像、類い稀な詩人としての栄光がもたらした見るも無残なその後の悲惨、戦後のこの国が生んだ一つの悲劇がそこにあった。

 詩人であれ作家であれ、研究者でもないので元々どんな暮らしをしようが作品以外に興味を持たないことにしているが、石原吉郎だけは、60年代の青年期に強い影響を受けたことと、彼の旧ソヴィエトでの戦後8年間のシベリア抑留生活があらゆる意味で彼の表現を決定づけたこともあり、できれば平穏かつ安らかに生きていてもらいたい人だったという思いがあり、その暮らしぶりが何故か気になっていた。
 読み始めて直ぐに辛いなあと感じたのが第一印象。著者自身のぎこちない人間関係の処理の顛末を通して、対象を浮き彫りにするという私小説的な手法がこのエッセイの書き方、克明に描かれている晩年の生身の石原吉郎の姿は、何とも言えず寂しく哀れ、いつ頃からか高度成長を遂げてゆくこの国の日常になじめずに、徐々に人間性が崩壊してゆく過程が生ま生し過ぎて、目を背けたくなるような場面がいくつも出てきて悄然となった。70年以降、私が石原に関心を持てなくなった頃から、彼自身この国の戦後の状況の中で身の置き所を失い、表現者としてピークを過ぎて形骸化と空洞化の道をたどっていったことが如実に分かり、何とも辛い思いを味わった。
 この苦痛を石原個人の悲劇として封印するか、この国の戦後が抱え込んだ歴史的な悲劇の一部と捉え返すか、受け取る人によって様々だろう。石原吉郎の晩年をめぐる議論に何だか興味がわいてきた。
 ところで、話題を変えるが、この本は石原吉郎以外にも<私の愛した詩人たちの思い出>の副題通り、他に4人の詩人たちの実像が描かれる。特異なのは、石原を含め対象となっている全員がすでに故人になってしまっていること、しかも、それぞれの詩の世界よりも、著者との生前の交際場面の思い出やエピソードを中心に、その人となりを描き出そうをしていること。常に冷静に描こうとする著者の姿勢のせいか、どこかしら醒めて冷たい記述がやや残酷に対象を描き出し、生きている人はこうは書けないなという気がした。かつて<愛した>とまで言い切れる身近だった人のことを語るのは、いかに難しいかを実感。
 思い出に残っている小さな欠片のようなエピソードを丹念に拾い集めて、詩を書く仲間からの噂や伝聞で隙間を埋めつつ、ところどころに印象的な詩篇のフレーズを引用して綴られたエッセイ。作品論でも人物論でもなく、評伝でもない。交際の当事者である著者自身のかなりな個性の表出も絡んで、不思議な読み物に仕上がっている。部分的には非常にリアルな読み物なので、興味本位で全部読まされてしまった。5人全部が、相当の欠陥人間なので、そんな人たちが詩人になるのだろうかと、奇妙な疑問を持ってしまった。少し変な人なら、自分を含めてどこにでもいるので、詩人も普通の何処にでもいる人と変わりはしないということだろうか。嫌な思い出は、心の奥に仕舞い込んで墓場まで持ってゆくのが、凡人には一番いいのかもしれない。
 はっきり言って、本書は、詩や詩人に興味がない人には薦められない。詩でも書いてみようかと思っている人だったら、決して甘くはないぞという意味で、読んでみてもいいかもしれない。私の感想は、意外に面白かったと言っておこう。最後に、例によって目次を引用しておこう。

サンチョ・パンサの行方−石原吉郎覚え書
誰もいません−黒部節子について
銀河憧憬−杉克彦追悼
水夫帰還−水沼靖夫のこと
かぎりなく渇いて−北森彩子の思い出